「井伊直澄」の版間の差分

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[[万治]]元年([[1658年]])、兄・[[井伊直縄]]が早世したため彦根藩嫡子となる。翌万治2年([[1659年]])、父・直孝が亡くなったためその跡を継いで彦根藩主となる。[[寛文]]8年([[1668年]])11月19日には大老に就任。延宝4年(1676年)1月3日、大老在職中に死去。享年52。後は直孝によって定められた通り、兄・井伊直時の長男で直澄の甥に当たる[[井伊直興]]が継いだ。
 
穏やかながら機知に富んだ性格で、ある日[[徳川光圀]]の伴として[[徳川家綱]]の茶会に出席したことがあったが、家綱は茶を点てるのに不慣れで一人では飲みきれない量を光圀に出してしまった。今さら引っ込めるわけにもいかず、出された光圀も将軍直々に出された茶を残すわけにもいかず、場は一瞬にして凍りついた。
そこで直澄が進み出て「将軍様がお点てになったお茶など勿体無くて頂戴する機会はございません。ご老公様、もしもお飲み残しであるようなら、是非拙者にも賜れないでしょうか」と取りなした。光圀は胸をなでおろし、家綱も「余ればそのまま直澄へ」と言ったという。
 
また、直澄は父・直孝に恩義を感じ、供養塔を[[琵琶湖]]の[[多景島]]に建てている。延宝四年([[1676年]])正月に江戸にて没。
なお、大老在任中には、[[江戸]]の市中を騒がせた'''[[浄瑠璃坂の仇討]]'''が勃発。仇討を果たした一党は自害せずに、幕府に出頭して裁きを委ねて来た。これは徒党を組んでの仇討であり、厳罰必至の裁定が下るところでありながら、大老・掃部頭直澄の意見が大きく反映された。このため「遠島流罪」に軽減されている。直澄は、この仇討の志士たちを好意的に受け止めていたようで、流罪から数年後には、恩赦を受けた仇討の首魁たちを彦根藩士として召し抱えている。
 
なお大老在任中に、[[江戸]]の市中を騒がせた'''[[浄瑠璃坂の仇討]]'''勃発起きている。仇討を果たした一党は自害せずに、幕府に出頭して裁きを委ねて来た。これは徒党を組んでの仇討であり、厳罰必至の裁定が下るところでありながら、大老・掃部頭であった直澄の意見が大きく反映された。このため「遠島流罪に軽減されている。直澄は、この仇討の志士たちを好意的に受け止めていたようで、流罪から数年後には恩赦を受けた仇討の首魁たち面々を彦根藩士として召し抱えたりしている。