「スタジオ・システム」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
江口磐世☆ (会話 | 投稿記録)
27行目:
スタジオは、映画の製作だけでなく、自社の映画へ観客を取り込むためにも、ブロック・ブッキング(20本単位で作品を会社の所有している系列映画館だけに公開する手段)のような方法を使って、配給や上映も管理していた。このような複雑で統合された産業は莫大な利益を生むものであったが、その資金もまた高額であった。そのため、資本家や[[ウォール街]]によってスタジオがコントロールされる傾向が大きくなった。たとえば、1930年代の大恐慌時代に[[パラマウント・ピクチャーズ|パラマウント]]は破産へ、合併前のフォックスは財政難に、[[ユニバーサル映画|ユニバーサル]]と[[RKO]]は財産管理を強いられていった。しかし、いずれのスタジオも1935年までには内部組織を整理し地道に再建資金を集め、それぞれ復活する。ちなみに1930年代の米国の長者番付の連続第1位は、MGMの社長であった。
 
また、同時に映画の職人らで作られた低予算でのスタジオ(たとえば[[リパブリック・ピクチャーズ|リパブリック]]社や[[モノグラム]]社など)もあったし、[[デヴィッド・O・セルズニック]]や[[サミュエル・ゴールドウィン]]らのような、独立系の大物の映画[[プロデューサー]]も中には存在したのである。しかし、1930年代終わり頃には、メジャー・スタジオが毎年75%以上の作品を配給し、各メジャー・スタジオだけでも年間40本以上を製作したのであった。また、メジャー・スタジオにおいては、大予算でトップスターが出演する「A級映画」('A' pictures)と比較的低予算でスターの数も少ない添え物的な「[[B級映画]]」('B' pictures)の数本立ての興業が同時に行われる様になった。日本で内容等が劣ることを総称して「B級」というのはここから由来している。
 
このシステムは、程度の差はあるが、イギリスやイタリア、ドイツ、日本、インドといった他の国々の映画製作においても、大なり小なり同様の工程が採用されていった。