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== 歴史 ==
地名の由来は[[八坂神社]]周辺に川が流れいたと推測される。[[江戸時代]]初期、[[豊臣秀吉]]の正室である[[北政所]]がこの地に[[高台寺]]を建立。それに伴って連れてきた芸人が住み着いたのが、後の花街の始まりといわれる。下河原の芸妓は「山根子芸者(やまねこげいしゃ)」と呼ばれ、当時祇園などにいた「茶屋女」とは違い、遊女めいたところがなく、芸により優れていて人々を魅了した。傾城町(公許花街)[[嶋原]]の管下として渡世(免許)が許され、栄え続けた。師匠をむかえ[[井上流|京舞井上流]]を街の流儀としたのは「祇園新地」(後の[[祇園甲部]]・[[祇園東]])よりもこちらが先である。明治を迎え、日本最初の[[博覧会]]の附博覧として[[祇園甲部|祇園]]の『[[都をどり]]』と共に『東山をどり』が上演されたが(ここに古くからあった「まくづ踊」という伊勢音頭に似た総踊を元としたものという)衰退の一途をたどり、[[1886年]](明治19年)、祇園甲部に合併され、消滅した。現在、花街としての面影は残っていないがお茶屋の鑑札プレートを掲げている民家が数件存在している。
 
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