「イタリア領東アフリカ」の版間の差分
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'''イタリア領東アフリカ''' ('''Africa Orientale Italiana''') とは、[[1936年]][[5月9日]]に成立した[[エチオピア帝国|エチオピア]]、[[イタリア領ソマリランド]]、[[エリトリア]]の3地域を合わせたイタリアの[[植民地]]。形式上では、イタリア王国と[[同君連合]]を組む'''東アフリカ帝国(エチオピア帝国)'''とされていたが、実質上ではイタリアの植民地であった。約5年後に解体された。
== 第一次エチオピア戦争まで ==
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== 第二次エチオピア戦争 ==
しかし、イタリアはアフリカにおいて[[リビア]]、イタリア領ソマリア、エリトリアの3ヶ所しか植民地を保有していなかったため、再度エチオピア獲得を目指した。[[1934年]]にエリトリア、エチオピア国境で発生した銃撃戦は、いったん和平交渉の形をとったものの、[[1935年]][[10月2日]]に[[ベニート・ムッソリーニ]]がエチオピア侵略を開始。これを[[第二次エチオピア戦争]]という。エリトリアとソマリランドから進入し、[[1936年]][[5月5日]]にはエチオピアの首都[[アディスアベバ]]が陥落
エチオピアは[[1923年]]に[[国際連盟]]に加入していたため、エチオピア皇帝[[ハイレ・セラシエ1世]]は連盟に援助を要請した。しかし、連盟の加盟国間で意見が一致しない。アメリカとソビエト連邦はイタリアの行為を侵略と認めたが、イギリスとフランスはイタリアとの戦争を恐れ、イタリアの行為を承認。結局、連盟の採決はイタリアを処罰しないというものになった。
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