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戦後の山梨県政では既成勢力の支持した官僚知事の[[吉江勝保]]により戦災復興が行われ、昭和26年の第二回知事選で保革連合による支持を受けた民主党代議士[[天野久]]が初の県人知事として当選した。天野県政は分裂していた保守派を統合して安定した政治基盤を築き、[[野呂川総合開発]]、[[新笹子トンネル]]、富士北麓開発など開発を重視した総合開発政策が実施され、災害復旧や[[北富士演習場]]問題が懸案事項であった。県政後期には農政を巡る対立や、総合開発のため中央の自民党主流佐藤派との関係を深めていたことから党の対立構造が影響し、自民党非主流の川島正次郎派の田辺は佐藤派の議員金丸信と対立し、天野の多選反対を展開した。
1962年(昭和37年)の知事選では前自民党県連会長で県農協政治連盟の[[星野重次]]が出馬するが天野は四選を果たし、五選を前にした[[1967年]]([[昭和42年]])の知事選においては国政でも自民党内から知事の多選反対論が噴出しており、田辺も堀内や前知事の[[吉江勝保]]らと五選反対論を展開した。同年5月には[[日本社会党]]山梨県本部や農政連を中心に県政刷新連が組織され、10月の県議会議員選挙では天野派と反天野派が拮抗する状態となった。同月25日に組織された県政浄化同志会で田辺は副会長に選出され、同志会は自民党の多選反対派が合流して保革連合が成立する。
刷新連の候補者選定では自民党の堀内のほか社会党の[[小林信一]]や星野重次らの名前が浮上するが、それぞれ保守派や革新派の支持が集まらず、県政浄化同志会の支持や年齢の点から田辺が候補者に選定される。田辺は[[北富士演習場]]の全面返還と平和利用や恩賜林開発における[[入会権]]の尊重など県政課題における社会党主導で作られた刷新連の綱領や、副知事の革新派から選出することを条件に立候補を承諾した。
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=== 退任後の活動 ===
その後は衆議院議員に戻り、[[鈴木善幸]]内閣の[[沖縄開発庁]]長官、[[総理府]]総務長官などを歴任した。自民党では、[[福田赳夫]]→[[安倍晋太郎]]→[[三塚博]]→[[森喜朗]]派(
平成17年(2005年)12月19日[[老衰]]のため[[甲州市]]の病院で死去。享年92。
== 人物 ==
叔父の[[田邊宗英]]([[日本ボクシングコミッション]]の初代コミッショナーで[[後楽園ホール]]を経営する後楽園スタヂアム(現・[[東京ドーム (企業)|東京ドーム]])の社長)と同じく熱心な[[ボクシング]]ファンで知られ、自身、田辺ジムという[[ボクシングジム]]を経営し
長男の田邊篤は現甲州市長、前山梨[[県議会議員]]。
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{{DEFAULTSORT:たなへくにお}}
[[Category:日本の国会議員]][[Category:ボクシングの関係者]]
[[Category:日本の閣僚経験者]]
[[Category:山梨県の政治家]]
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