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'''中山 兼宗'''(なかやま かねむね、[[長寛]]元年([[1163年]]) - [[仁治]]3年9月3日([[1242年]]))は[[平安時代]]の[[公卿]]・[[歌人]]。[[内大臣]]・[[中山忠親]]の[[長男]]。母は[[弁官|権右中弁]][[藤原光房]]女。[[正室]]は[[藤原重家 (刑部卿)|藤原重家]]女。[[正二位]]、[[按察使]]、[[大納言|権大納言]]。子に[[中山忠定|忠定]]・[[中山仲親|仲親]]・[[良豪]]らがいた。
[[仁安 (日本)|仁安]]2年([[1167年]])叙爵。[[侍従]]・[[近衛府|左近少将]]・[[近衛府|右近中将]]・[[阿波国|阿波介]]
歌人としては『[[千載和歌集]]』(歌番号328)に1首入る他、『[[新古今和歌集]]』以後の勅撰和歌集に20首入集し、建久2年の若宮社歌合、[[六百番歌合]]、[[千五百番歌合]]、経房家歌合などにも出詠している。『井蛙抄』六によれば、定家は「歌は兼宗大納言、[[束帯]]にて陣座に着て。公事をこなひたる様によむべし」と語ったと伝えられる。また[[治承]]3年([[1179年]])正月には[[高倉天皇]]の朝勤行幸の御遊に伺候し、初めて[[箏]]の役を務めて以来、建久5年には楽所別当にも補され、種々の[[和歌]]会御遊などでも箏や[[琵琶]]の役を担当したことが知られる。
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