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== 経歴 ==
[[広島県]]で繊維問屋を営む家に生まれ、不自由なく育つ。幼少の頃より歌好きであったが、旧・広島文理科大学在学中に出場した音楽コンクールで3位入賞を果たしたことで、本格的に歌の道を志し、[[武蔵野音楽学校]]へ入学し直す。
 
当初はオペラ歌手を目指していたが、在学中に[[伊藤久男]]の「[[イヨマンテの夜]]」のバックコーラスのアルバイトをしたことで流行歌の魅力にとりこになり、作曲家の[[米山正夫]]に師事。
大学卒業後の[[1951年]]、24歳で[[コロムビアミュージックエンタテインメント|コロンビア]]から「星空」でデビューしたも。同年、[[久慈あさみ]]主演[[新東宝|新東宝映画]]「牝豹売れず地図」には流しの役で出演している。しかしヒット曲はなく、下積み生活を続ける。[[1953年]]には[[安藤まり子]]と結婚し、一女をもうけるも[[1956年]]に離婚。
 
[[1957年]]、[[映画]]『[[喜びも悲しみも幾歳月]]』の同名[[主題歌]]に抜擢、映画と共に主題歌も大ヒットし、一躍若山の名は知れ渡り、人気歌手の座を不動のものにした。この年から『[[NHK紅白歌合戦]]』に4回連続出場している(詳細は下記参照)。
 
[[1963年]]には、[[作詞家]]の[[星野哲郎]]と共に[[日本クラウン]]の創立に参加しコロンビアから移籍、「老いらくの恋」などのヒットを出す。
 
[[1975年]]、シャンソン・カンツォーネ国際コンクールに出場し、銀賞を受賞する。
 
この他の曲に「愛情物語」、「南極観測隊の歌」、「氷海越えて」、「惜春鳥」、「さいはて岬」、「娘へ」、「戦いすんで日が暮れて」や「[[空の神兵]]」、「[[敵は幾万]]」、「[[加藤隼戦闘隊]]」、「昭和維新の歌(青年日本の歌)」、「[[月月火水木金金]]」などの[[軍歌]]、「長崎県民歌・南の風」、「木更津にて」など各地の[[ご当地ソング]]、『[[特別機動捜査隊]]』の挿入歌や[[プロ野球]]球団歌、[[読売ジャイアンツ|巨人軍]]「闘魂こめて」、「[[阪神タイガースの歌]](通称:[[六甲山#六甲颪|六甲おろし]])」などがある。「阪神タイガースの歌」は多くの歌手に歌唱されたが、若山の歌唱のものが[[阪神甲子園球場|甲子園球場]]での阪神戦で流されたのが切っ掛けで、歌詞を覚えた当時[[朝日放送]][[アナウンサー]]だった[[中村鋭一]]によって多くのファンに広められ定着したとされる。
 
[[1990年]]には[[脳梗塞]]で倒れるも復帰。その後[[進行性核上性麻痺]]に罹り、闘病しながら歌手活動を行った。
 
[[1998年]]12月9日、死去。
 
== NHK紅白歌合戦出場歴 ==