「ド・ゴール主義」の版間の差分

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ド・ゴール主義は総じて[[右翼]]思想と思われているが、[[左翼]]のド・ゴール主義者もいる。これは社会的、経済的政策の主張の違いが両者の間にあるだけである。
 
ド・ゴール主義は時には、[[ポピュリズム]]の一種として性格付けられる。ド・ゴール主義がド・ゴールの個人的[[カリスマ]]に依存しているからである。ド・ゴールは議会政治よりも[[直接民主制]]に拠ろうとし、政治家たちとの付き合いや政治的駆け引きを望まなかった。そのためド・ゴールは自身の提起した上院改革の国民投票に敗れると大統領を辞任した。
 
== 政治団体 ==
===ド・ゴール時代===
[[政治団体]]の名称としての「ゴーリスト」は、ド・ゴールの政党[[共和国民主連合]] ({{interlang|fr|Union des Démocrates pour la République}}、UDR)に言及するときに使用される。
 
===ド・ゴール以後===
ド・ゴールの死、および[[1976年]]のUDRの解散以来、ゴーリストが誰を指すかはややはっきりしていない。
 
1980年代から90年代の語法ではゴーリストはUDRを改組した[[ジャック・シラク]]の中道右派政党[[共和国連合]]を指し示した(今は[[国民運動連合]]に統合され解消した)。
 
シラクはゴーリストであり、1970年代半ばにフランス首相を務めた時期に、経済政策の遂行にあたり計画経済路線と[[レッセフェール|レッセ・フェール]]路線の両方でアプローチしたことがあった。また[[1978年]]、パリのCochin病院入院中に出した有名な[[欧州懐疑主義|反欧州主義]]的宣言 ''{{interlang|en|Appel de Cochin}}'' では、[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン]]大統領の[[フランス民主連合]]がとる欧州主義や[[EEC]]拡大路線を公然と非難した。
 
しかし後年、シラクは[[親ヨーロッパ]]的(親[[欧州連合|EU]])スタンスをとるようになった。それゆえ、右派の中には、[[シャルル・パスクワ]]のように、シラクと彼の政党を「真のド・ゴール主義者」ではないと非難している者もいる。シラクの後任である[[ニコラ・サルコジ]]大統領は、フランスがNATOに完全に復帰するという決定を[[2009年]]に下した。この決定は野党だけでなく、与党の国民運動連合の内部においても、とくにアメリカとの関係におけるフランスの独自的立場を損ねるものとして「ゴーリスト」たちの反発を招いた。