「ヤン1世スホラスティク」の版間の差分

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'''ヤン1世スホラスティク'''(Jan I Scholastyk, 1308/1310年 - [[1372年]][[9月29日]])は、[[オシフィエンチム]]公(在位:1324年 - 1372年)。[[ヴワディスワフ1世 (オシフィエンチム公)|ヴワディスワフ1世]]の一人息子、母はプウォツク公[[ボレスワフ2世 (マゾフシェ公)|ボレスワフ2世]]の娘エウフロジナ。異称のスホラスティク(Scholastyk)は「スコラ学者」を意味する。
 
ヤン1世は父の一人息子だったが、子供の時は聖職者になるための教育を受けていた。1321年12月15日ぬは、ヤンは[[クラクフ]]において[[スコラ学|スコラ学者]]の役職を受けている。父ヴワディスワフ公が1324年に死ぬと、ヤン1世はオシフィエンチムを相続したため、必然的に還俗することを余儀なくされた。1325年までヤン1世は母である公爵未亡人エウフロジナの摂政を受けたが、1329年に死ぬまで母は公国の政治に影響を及ぼし続けた。
 
教会の聖職から離れたにもかかわらず、ヤン1世はクラクフのスコラ学者の地位から生じる歳入を受け続けており、これが教皇[[グレゴリウス11世 (ローマ教皇)|グレゴリウス11世]]に介入を受ける原因になった。ヤンは後に、この不正な詐取の罰金として5000グジヴナおよび500[[フローリン]]を支払っている。