「駿河徳川家」の版間の差分

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'''駿河徳川家'''(するがとくがわけ)は[[駿河国]]にあっ・[[遠江国]]・[[甲斐国]]を治めた[[徳川氏]]の支系の一つ。駿河[[大納言]]家とも。{{要出典範囲|近年の研究では[[松平氏|松平姓]]であったことが顕かにされている}}。
 
== 歴史 ==
[[江戸幕府]]2代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川秀忠]]の三男・[[徳川忠長|忠長]]を家祖とする。忠長は父・秀忠から[[甲斐国元和 (日本)|元和]]2年(あるいは元和4年([[1618年]]))9月に[[甲府藩]]23万8000石を拝領し、(『[[甲斐国志]]』による)のち[[駿河信濃|]]の[[小諸藩]]も併合されて領地に加えられた。[[寛永]]元年([[1624年]])7月には駿河国と遠江国の一部([[掛川藩]]領)与えら加増さ、駿遠甲の計55万石を領有し、駿河徳川家を創設した。なお、その際に小諸藩領は領地から外されている(後に[[松平憲良]]が入封)。しかし、粗暴な行動があった忠長は後に不行跡を理由として[[大御所]]秀忠から蟄居を命ぜられ、秀忠の死後には兄の3代将軍・[[徳川家光|家光]]によって[[改易]]され、さらに[[高崎市|高崎]]に移されて幽閉された後に自刃して果てたため、駿河徳川家はわずか一代で断絶した。
 
== [[徳川御三家|御三家]]との関係 ==
[[徳川御三家]]は一般に[[尾張徳川家|尾張]]、[[紀州徳川家|紀伊]]、[[水戸徳川家|水戸]]の三家であるといわれているが秀忠によって駿河家の石高(55万石)加増され、水戸家のそれ(35万石)がを上回っていたことや、尾張家や紀伊家同様極大納言(水戸家は[[納言]]であったことから当の御三家は尾張、紀伊、駿河で構成されていたとする説が存在する。
 
== 関連項目 ==