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[[ファイル:Buckle 1857.jpg|thumb|バックルの肖像]]
== ヘンリー・トマス・バックル ==
'''ヘンリー・トマス・バックル'''(1821(Henry Thomas Buckle、[[182111]]112424-1862 - [[1862]]52929日)は、イギリスの[[歴史学者]]。『[[文明の歴史]]』の著者。
 
ウィキペディア、フリー百科事典より
 
 
'''ヘンリー・トマス・バックル'''(1821年11月24日-1862年5月29日)は、イギリスの歴史学者。『文明の歴史』の著者。
 
 
== 生涯 ==
 裕福なロンドンの哲学者・商人であるトマス・ヘンリー・バックルの息子として、[[ケント州]]のリー市に生まれる。病弱であったため、正式な学校教育を受けることが困難であった。しかし幼少時代、読書に対する愛情が大いに励みとなる。2020歳になる前に、世界でも屈指の実力を誇る[[チェス]]プレーヤーとして、その名を知られるようになった。184018401月に父親を亡くした後、母親と共に大陸を旅する(1840(1840年から18441844年まで)。そのとき、全ての学識と熱意を偉大なる歴史的業績に傾倒することを決意する。以後1717年間に渡り、1日に1010時間もの時間を研究に費やしたと言われている。
 
 当初は[[中世]]の歴史について熟考していたが、18511851年までに、文明の歴史の研究に傾することを決意した。以後6年間は執筆作業編集と改訂に取り組み、『文明の歴史』の第1巻が18571857年に刊行された。これにより文学的・社会的名声を確立する。18581858年、王立研究所において公開講義(生涯で初めての経験であったが)、「知識の進歩に対する女性の影響力」を行い、これは185818584月に出版されたフレーザー誌、および『著者の死後に出版された種々の功績』の第1巻に掲載された。
 裕福なロンドンの哲学者・商人であるトマス・ヘンリー・バックルの息子として、ケント州のリー市に生まれる。病弱であったため、正式な学校教育を受けることが困難であった。しかし幼少時代、読書に対する愛情が大いに励みとなる。20歳になる前に、世界でも屈指の実力を誇るチェスプレーヤーとして、その名を知られるようになった。1840年1月に父親を亡くした後、母親と共に大陸を旅する(1840年から1844年まで)。そのとき、全ての学識と熱意を偉大なる歴史的業績に傾倒することを決意する。以後17年間に渡り、1日に10時間もの時間を研究に費やしたと言われている。
 
 1859185941日に母親を亡くす。それによって非常に心を痛め、不滅についての議論とともに執筆していた、J.S.[[ジョン・スチュアート・ミル|J・S・ミル]]の『自由論』についての論評-最愛の故人とともに宗派を取り戻すことへの愛着についての切なる思いと、(もしその宗派の分裂を最後と考えるのであれば)立ち上がり生きていくことの不可能性をもとに記述されている-を終了させてしまった。その論評はフレーザー誌、および『著者の死後に出版された種々の功績』(1872)(1872)に掲載された。
 
 当初は中世の歴史について熟考していたが、1851年までに、文明の歴史の研究に傾倒することを決意した。以後6年間は執筆作業-編集と改訂-に取り組み、『文明の歴史』の第1巻が1857年に刊行された。これにより文学的・社会的名声を確立する。1858年、王立研究所において公開講義(生涯で初めての経験であったが)、「知識の進歩に対する女性の影響力」を行い、これは1858年4月に出版されたフレーザー誌、および『著者の死後に出版された種々の功績』の第1巻に掲載された。
 
 『文明の歴史』の第2巻が186118615月に出版される。その後まもなく、健康上の理由からイングランドを去り旅に出る。18611861年の冬から6262年の3月初旬までエジプトで過ごし、シナイとエドムの砂漠を越えてシリアの方角へ向かい、1862186241919日にエルサレムへ到着した。1111日後、ベイルートからヨーロッパに向けて出発したが、ナザレで熱病にかかり、その後ダマスカスで死去した。
 
 バックルの名声はイングランドの『文明の歴史』として残っている。これは未完成の途方もない序説で、その構想は、第1に著者達の方法論の一般的な原理と人間の進歩の針路を統治する一般的な法について述べ、第2にスペインやスコットランド、アメリカそしてドイツといった、顕著で独特な点によって特徴づけられる特定の国々の歴史を通してそれらの原理や法を例証するというものであった。その主な見解は以下の通りである。
 1859年4月1日に母親を亡くす。それによって非常に心を痛め、不滅についての議論とともに執筆していた、J.S.ミルの『自由論』についての論評-最愛の故人とともに宗派を取り戻すことへの愛着についての切なる思いと、(もしその宗派の分裂を最後と考えるのであれば)立ち上がり生きていくことの不可能性をもとに記述されている-を終了させてしまった。その論評はフレーザー誌、および『著者の死後に出版された種々の功績』(1872)に掲載された。
 
:1.#歴史学者の能力の欠如に一部分を依拠し、また社会現象の複雑さに一部分を依拠し、国家の特徴と運命を統治する原理の発見、あるいは、言い換えれば、歴史の科学の確立に向けて、極端にわずかのことしかなされてこなかった。
:2. #神学的な予定説の命題が知識の分野を超えて不毛の仮説であり、形而上学の自由な命題が意識の不過誤の内にある誤った信念として存在する一方で、人間の行動が物理的な世界を治め規則的で固定されたものとして存在する法律によって統治されていることが、科学、とりわけ統計学によって証明される。
:3.#気候、土壌、食糧、そして自然の様相が知性の進歩の主要な原因である-最初の三つは富の蓄積と分配を決定するが間接的で、最後の一つは思考の蓄積と分配に直接的な影響を与える。外界の現象が過酷で畏敬すべきものであるとき、想像力は刺激され理解力は抑えられる。外界の現象が小さく弱いものであるとき、理解力は刺激され想像力は抑えられる。
:4.#ヨーロッパの国々とそうでない国々の文明の大きな差異は以下の事実に依拠する。すなわちヨーロッパでは人が自然よりも強く、その他の土地では自然が人よりも強い。その結果として、ヨーロッパにおいてのみ人が自然をその活動のうちに服従させることができる。
:5.#ヨーロッパの文明は物理的な法の断続的減少による影響と、精神的な法の断続的増加による影響によって特徴づけられる。
:6.#社会の進歩を規定する精神的な法は形而上学的な方法(個人の思考についての内省的な研究方法)では発見することができない。しかし事実の包括的調査によってのみ、我々は障害物を取り除くことができる。すなわち、算術平均による方法である。
:7.#人間の進歩は、どの期間をとってみても影響を感じられないしきたりの中でバランスを保ち固定的である道徳の力によるものではなく、絶え間なく変化し発展していく知的な活動によるものである-“個々人の行動は、彼らの道徳的な感覚と感情に大きな影響を受ける。しかしそれらは他の個々人の感情や感覚と対立するため、彼らの中でバランスを保ち、結果として、人間に関する事柄の大規模な平均というものは存在せず、人間の行動の総計というものは、全体として、人間が持つ知識の総量として規定される”
:8.#個人の努力は大衆に関する事柄の前では取るに足らないものであり、確かに偉大な人々は存在し、“現在のところは”憂慮すべき力を持っているとみなされるに違いないが、彼らは単に自分達が属する時代の被造物にすぎない。
:9.#宗教、文学そして政府は、せいぜい所産にすぎず、文明の原因ではない。
:10.#文明の進歩は“懐疑的な態度”(疑いそして調査する性質)として、また逆に“軽信性”あるいは“保守的な性向”(調査することなしに維持する性質で、信念と慣習を確立する)として、変化する。
 
 バックルは歴史を正確な科学として扱ったことで知られており、そのことが彼の着想の多くのものが文学上の一般的な見解とされた理由であり、彼の慎重な科学的分析によって、後の社会学や歴史学の著者達はさらに正確かつ入念に彼の研究を引き継いでいくこととなったのである。
 『文明の歴史』の第2巻が1861年5月に出版される。その後まもなく、健康上の理由からイングランドを去り旅に出る。1861年の冬から62年の3月初旬までエジプトで過ごし、シナイとエドムの砂漠を越えてシリアの方角へ向かい、1862年4月19日にエルサレムへ到着した。11日後、ベイルートからヨーロッパに向けて出発したが、ナザレで熱病にかかり、その後ダマスカスで死去した。
 
== References ==
{{Wikisource1911Enc|Buckle, Henry Thomas}}
* See his ''Life'' by AW Huth (1880).
* {{1911}}
 
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Henry Thomas Buckle}}
{{wikisourcelang|en|Buckle as a Chess Player}}
* [http://www.chessgames.com/perl/chessplayer?pid=10323] Henry Thomas Buckle player profile at ChessGames.com]
* [http://www.perceptions.couk.com/alife.html Biography and quotes on Perceptions.com]
* [http://www.encyclopedia.com/doc/1E1-BuckleHen.html Entry on Encyclopedia.com]
 
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 バックルの名声はイングランドの『文明の歴史』として残っている。これは未完成の途方もない序説で、その構想は、第1に著者達の方法論の一般的な原理と人間の進歩の針路を統治する一般的な法について述べ、第2にスペインやスコットランド、アメリカそしてドイツといった、顕著で独特な点によって特徴づけられる特定の国々の歴史を通してそれらの原理や法を例証するというものであった。その主な見解は以下の通りである。
[[Category:イギリスの歴史学者]]
 
[[Category:各国のチェス選手]]
 
[[Category:1821年]]
:1.歴史学者の能力の欠如に一部分を依拠し、また社会現象の複雑さに一部分を依拠し、国家の特徴と運命を統治する原理の発見、あるいは、言い換えれば、歴史の科学の確立に向けて、極端にわずかのことしかなされてこなかった。
[[Category:1862年]]
 
 
:2. 神学的な予定説の命題が知識の分野を超えて不毛の仮説であり、形而上学の自由な命題が意識の不過誤の内にある誤った信念として存在する一方で、人間の行動が物理的な世界を治め規則的で固定されたものとして存在する法律によって統治されていることが、科学、とりわけ統計学によって証明される。
 
 
:3.気候、土壌、食糧、そして自然の様相が知性の進歩の主要な原因である-最初の三つは富の蓄積と分配を決定するが間接的で、最後の一つは思考の蓄積と分配に直接的な影響を与える。外界の現象が過酷で畏敬すべきものであるとき、想像力は刺激され理解力は抑えられる。外界の現象が小さく弱いものであるとき、理解力は刺激され想像力は抑えられる。
 
 
:4.ヨーロッパの国々とそうでない国々の文明の大きな差異は以下の事実に依拠する。すなわちヨーロッパでは人が自然よりも強く、その他の土地では自然が人よりも強い。その結果として、ヨーロッパにおいてのみ人が自然をその活動のうちに服従させることができる。
 
 
:5.ヨーロッパの文明は物理的な法の断続的減少による影響と、精神的な法の断続的増加による影響によって特徴づけられる。
 
 
:6.社会の進歩を規定する精神的な法は形而上学的な方法(個人の思考についての内省的な研究方法)では発見することができない。しかし事実の包括的調査によってのみ、我々は障害物を取り除くことができる。すなわち、算術平均による方法である。
 
 
:7.人間の進歩は、どの期間をとってみても影響を感じられないしきたりの中でバランスを保ち固定的である道徳の力によるものではなく、絶え間なく変化し発展していく知的な活動によるものである-“個々人の行動は、彼らの道徳的な感覚と感情に大きな影響を受ける。しかしそれらは他の個々人の感情や感覚と対立するため、彼らの中でバランスを保ち、結果として、人間に関する事柄の大規模な平均というものは存在せず、人間の行動の総計というものは、全体として、人間が持つ知識の総量として規定される”
 
 
:8.個人の努力は大衆に関する事柄の前では取るに足らないものであり、確かに偉大な人々は存在し、“現在のところは”憂慮すべき力を持っているとみなされるに違いないが、彼らは単に自分達が属する時代の被造物にすぎない。
 
 
:9.宗教、文学そして政府は、せいぜい所産にすぎず、文明の原因ではない。
 
 
:10.文明の進歩は“懐疑的な態度”(疑いそして調査する性質)として、また逆に“軽信性”あるいは“保守的な性向”(調査することなしに維持する性質で、信念と慣習を確立する)として、変化する。
 
 
 バックルは歴史を正確な科学として扱ったことで知られており、そのことが彼の着想の多くのものが文学上の一般的な見解とされた理由であり、彼の慎重な科学的分析によって、後の社会学や歴史学の著者達はさらに正確かつ入念に彼の研究を引き継いでいくこととなったのである。
 
 
 
== 外部リンク ==
[http://www.chessgames.com/perl/chessplayer?pid=10323]
[http://en.wikipedia.org/wiki/ChessGames.com]
[http://www.perceptions.couk.com/alife.html]
[http://www.encyclopedia.com/doc/1E1-BuckleHen.html]
 
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