「手塚治虫」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Jazzy (会話 | 投稿記録)
m 校名、地名
m編集の要約なし
147行目:
既述のように手塚は医師免許を持っていたが、実際に医師として患者を診たことは無い(もっとも知人の漫画家やアシスタント、手塚番記者らが手塚の診断を受けたことがあるという言及は幾つか残っている){{要出典}}。手塚は旧制中学時代、[[栄養失調]]状態のまま厳しい[[学校教練|教練]]を受けたため[[水虫]]が悪化し、もう数日で両腕切断というまでになった。このとき診察した大阪帝国大学付属病院の医者に感動したため医師を目指したという{{要出典}}。ただし手塚は、医学校に行けば卒業までは徴兵される心配がなく、卒業後も軍医ならば最前線に配置される可能性が低いことが医学校に進んだ理由であったことも認めている{{要出典}}。
 
医師としての専門は[[外科学|外科]]であり、その当該分野の専門知識が『[[ブラック・ジャック]]』などの作品に活かされている。ただし医学博士を取得した際の研究テーマは外科分野ではなく基礎生物学領域のものであった。息子の手塚眞によれば、手塚は血を見るのが嫌いで医師の道を断念したと言う。
 
戦後に設立された[[奈良県立医科大学]]に[[電子顕微鏡]]が導入されたが、当時の日本には顕微鏡写真を撮影できる装置も技術も無かった。そこで、手描きでスケッチをしなければならなくなったが、医学論文に添付するようなスケッチは単に絵が上手いだけでは不適で、医学的な知識を持った者が描かなければ役に立たなかった。困った奈良県立医科大学の研究者は、医学校時代の同窓生である手塚にスケッチを頼んだ。このため、手塚は電子顕微鏡を自由に使え、なおかつスケッチもできる日本で唯一の研究者となった{{要出典}}。頼まれたスケッチ以外にも電子顕微鏡で多くのスケッチを行い、これを論文にまとめ、同大学はお礼の意味を込めて[[医学博士]]号を贈った{{要出典}}。学位取得論文名は、「異形精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」([[タニシ]]の[[異形精子]]細胞の研究)<ref>論文中の図はすべて写真撮影されたものであって手書きによるスケッチではない。また論文は一般に信じられていたドイツ語や英語による記述では無かった。</ref>。『奈良医学雑誌』第11巻第5号、1960年10月1日、pp.719-735.に所収。これらのスケッチは現在も奈良県立医科大学解剖学教室に保管されている。なお、同大学の図書館には、手塚が後に贈ったブラックジャックの絵が展示されている。