「備前喜夫」の版間の差分
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尾道西高校(現・[[広島県立尾道商業高等学校|尾道商業高校]])から[[1952年]]、創設二年目の[[広島東洋カープ|広島カープ]]に入団。当時の広島県内の有力選手は、影響力が強かった広島球団後援会の援助をプロ入り前から受けており、大田垣も「'''他のチームに行ったら承知しない'''」と脅されていたという([[白石勝巳]]著書 『背番号8は逆シングル』 207頁)。
翌[[1953年]]からは5年連続で2桁勝利を挙げるものの、この間2度20敗を記録。しかし、備前家の[[婿養子]]となって[[姓]]が変わり、[[背番号]]も16番に変更した[[1957年]]には20勝を記録した。[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター戦]]出場2回([[1956年]]、[[1959年]])。1959年にはルーキーだった[[王貞治]]に、シーズン[[本塁打]]7本のうち2本を献上している。体格からか、やや体力に乏しかったともいわれ怪我が多く、[[1962年]]現役を引退した。
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