「林忠正」の版間の差分

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[[越中国]]([[富山県]])[[高岡市|高岡]]の医家、長崎家の次男に生まれた。幼名は長崎重次、17才の時に[[富山藩]]士林太仲(たちゅう)の養子となり林忠正と改名。法律家を志し上京、やがて現在の[[東京大学]]に入学し[[フランス語]]と法律を学んだ。卒業の半年前に大学を中退し[[1878年]][[パリ万国博覧会]]の通訳として貿易商社に入社しとして渡仏、その後パリで日本などの東洋美術を扱う会社に就職、そこでさまざまな美術品に触れることで、日本美術への理解を深め、美術商として独立。また雑誌パリ・イリュストレ紙に日本美術の紹介の記事を寄稿した。また『[[歌麿]]』、『[[北斎]]』等を執筆していた晩年の[[エドモン・ド・ゴンクール]]と深い交流があり著述活動を支えた。以下は証言の一例である。
 
:林が言うには、「何せ哲学的な観念については私たち日本人はどこか収集家に似ているのですよ。つまりガラスケースを持っていて、その中には完全に引き付けられる物しか入れないのですが、かといってそのひかれる理由そのものはあまり詮索しない収集家(コレクター)なのですよ。」なんとも独創的(ユニーク)な考察だ。―『ゴンールの日記 1895年3月19日』(斎藤一郎訳、[[岩波書店]])より、一部改変。
 
病により1905年に帰国した際に、将来日本に本格的な西洋[[近代美術館]]を作るための「[[印象派]]」を始めとする膨大な西洋絵画、「[[浮世絵]]」などの流出した日本・東洋美術や蔵書のコレクションを持って帰ったが理解が得られないまま、翌年に病状が悪化し没した。没後すぐ美術コレクションは数度に分け処分され海外等へ流出、蔵書もバラバラに処分された。「林忠正蔵書売立目録」が、柴田光彦編『[[反町茂雄]]収集古書販売目録精選集.第3巻、[[昭和]]3年1月~4年11月』(復刻版[[ゆまに書房]].2000年)に遺されている。研究検証が本格化したのは、この10~20年である。