「浅野長広」の版間の差分
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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 浅野長広
{{武士/時代|[[江戸時代]]前期 - 中期}}▼
| 画像 =
{{武士/生誕|[[寛文]]10年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]]([[1670年]][[12月11日]])}}▼
| 画像サイズ =
{{武士/死没|[[享保]]19年[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]([[1734年]][[7月20日]])}}▼
| 画像説明 =
{{武士/改名|戌千代、長広}}▼
{{武士/別名|大学(仮名)}}▼
{{武士/戒名|亮監院殿月清涼山大居士}}▼
{{武士/墓所|[[泉岳寺|萬松山泉岳寺]]}}▼
{{武士/幕府|[[江戸幕府]][[旗本]]}}▼
{{武士/主君|[[徳川家宣]]→[[徳川家継|家継]]→[[徳川吉宗|吉宗]]}}▼
{{武士/氏族|[[浅野氏]]}}▼
{{武士/父母|父:[[浅野長友]]、母:[[内藤忠政]]の娘・[[内藤波知|波知]]<br />養父:''[[浅野長矩]]''}}▼
| 官位 =
{{武士/兄弟|[[浅野長矩|長矩]]、'''長広'''}}▼
{{武士/妻|正室:'''[[土方雄豊]]の養女'''([[土方豊高]]の娘)}}▼
{{武士/子|'''[[浅野長純|長純]]'''}}▼
'''浅野 長広'''(あさの ながひろ)は、[[江戸時代]]前期から中期の[[旗本]]。[[忠臣蔵]]で有名な[[浅野長矩|浅野内匠頭]]の弟。[[幼名]]は'''戌千代'''(いぬちよ)。通称は'''大学'''(だいがく)。
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元禄8年([[1695年]])12月、長矩が病気で危篤に陥るに及んで仮養子から正式に養子となった。しかし次第に兄と不仲となっていき、廃嫡の噂も立てられた。元禄13年([[1700年]])11月14日には[[伊勢国]][[菰野藩]]主・[[土方雄豊]]の養女(雄豊の早世した嫡子[[土方豊高]]の娘)を正室に迎えた。この縁組の背景には長矩が[[天和 (日本)|天和]]3年([[1683年]])に[[勅使]][[饗応役]]を命じられた際に土方雄豊が院使饗応役を務めていたことが関係していると思われる。
元禄14年([[1701年]])3月14日、兄・長矩が[[江戸城]]において[[江戸時代の高家|高家]]肝煎[[吉良義央]]に刃傷に及んで切腹となると、長広も連座して閉門謹慎、また3,000石の所領も召し上げられた。その後、浅野の遺臣[[大石良雄]]らは長広をもっての浅野家再興運動を行っていたが、翌年7月18日に広島浅野本家にお預けとされ、浅野家再興は絶望的となる。大石らによる吉良邸討ち入りがあったのはそれから5ヶ月後の事であった。なお長広自身は、お預かり中、浅野本家から1,000俵が支給された。
[[宝永]]6年([[1709年]])8月20日、将軍徳川綱吉死去に伴う大赦で許され、宝永7年([[1710年]])9月16日には新将軍[[徳川家宣]]に拝謁して改めて[[安房国]][[朝夷郡]]・[[平郡]]に500石の所領を賜り旗本に復した。またこれとは別に浅野本家からも300石を支給され続けた。ここに旗本ながら赤穂浅野家は「御家再興」を果たした。享保9年([[1724年]])7月19日、家督を嫡男の[[浅野長純]]に譲って隠居した。
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{{先代次代|[[浅野氏|長広流浅野家]]|初代:1710 - 1724|[[浅野長矩]]|[[浅野長純]]}}
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