「インカ帝国」の版間の差分

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スペインの[[コンキスタドール|征服者]]たちは、[[フランシスコ・ピサロ]]兄弟に率いられ[[パナマ]]から南下し、[[1526年]]にインカ帝国の領土に達した。彼らが大いなる財宝の可能性に満ちた富裕な土地に達したのは明確であったので、ピサロは[[1529年]]の遠征の後に一旦スペインに帰国し、その領域の征服と副王就任に係る国王の認可を得た。
 
[[1532年]]に彼らがペルーに戻ってきたとき、ワイナ・カパックの二人の息子たちである[[ワスカル]]と[[アタワルパ]]の間での内戦、新征服地の不安、そしておそらくより重要なことには[[中央アメリカ]]から広まった[[天然痘]]などにより、インカ帝国はかなり弱体化していた。ピサロは当時、わずか168名の兵士と1基の大砲、27頭の馬という兵力であり、決して抜きんでたものではなかったため、彼は自らの集団を容易に消し去りうる潜在的な内部対立から逃れるために、しばしば彼のやり方を説明する必要があった。インカ軍に比べスペインの完全防備の騎兵は、技術的に大きく優越していた。アンデス山脈における伝統的な戦闘とは、敵を圧倒するために多人数の繊維士気い徴集兵が送られた一種の[[攻城戦]]であった。スペイン人は前近代においては最も優秀な兵器の1つを開発しており、[[イベリア半島]]における[[ムーア人]]との何世紀にも及ぶ長い戦闘を通じて学んだ戦術を身につけていた。このように戦術的にも物質的にも優越しているうえに、スペイン人はインカの統治から脱しようとする何万もの現地の同盟国を買収していた。
 
最初の交戦は、現代の[[エクアドル]]、[[グアヤキル]]近郊の島、プナの戦いであった。その後ピサロは、[[1532年]]7月に[[ピウラ]]を建設した。[[エルナンド・デ・ソト]]は内陸部の探検のために送り出され、兄との内戦に勝利し8万人の兵とともに[[カハマルカ]]で休息中の皇帝アタワルパとの会見への招待状を携え帰還した。