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親王太守は、現地へ赴任しない[[遙任]]だったため、親王任国での実務上の最高位は、次官の国介(すけ)であった。平安中期になり、[[受領]]国司が登場した際も、親王任国については介が受領の地位に就き、他国の国守と同列に扱われた。なお、親王任国においては、太守の俸禄は太守の収入に、その他の[[料物]]については[[無品親王]]([[官職]]に就けない[[内親王]]含む)に与えられたと考えられているが、詳細は不明である。
 
[[承平天慶の乱]]において[[平将門]]が新皇として関東八ヶ国の国司を任命した際も、常陸と上総の国司は「[[常陸国|常陸介]]」「[[上総国|上総介]]」を任命している。叛乱勢力であり親王任国の慣習を守る必要は無いのだが、伝統として定着していたのであろう。しかし何故か上野だけは「上野守」を任命しており、これは将門が上野国に特別な意味を見出していたという説がある。
 
時代が下り、[[後醍醐天皇]]の[[建武の新政]]期には、一時期[[陸奥国]]も親王任国とされ、[[義良親王]]が[[陸奥国|陸奥]][[太守]]として実際に[[陸奥国]]へ[[赴任]]した。