「オスカル2世 (スウェーデン王)」の版間の差分

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'''オスカル2世'''(Oskar II, Oscar Fredrik Bernadotte, [[1829年]][[1月21日]] - [[1907年]][[12月8日]])は、[[スウェーデン]]・[[ベルナドッテ王朝]]第4代の[[スウェーデン]]国王(在位[[1872年]] - [[1907年]])および[[ノルウェー]]国王(在位[[1872年]] - [[1905年]])。父は[[オスカル1世 (スウェーデン王)|オスカル1世]]、母は[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ (スウェーデン王妃)|ジョゼフィーヌ]]([[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]の皇后[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ|ジョゼフィーヌ]]の孫)。
 
== 事跡 ==
嗣子のなかった[[カール15世 (スウェーデン王)|カール15世]]の死により即位した。この時代はスウェーデンの社会文化が振興し、成熟期を迎えた。また[[産業革命]]も起こった。国王と王家はその時代の象徴として存在し、スウェーデン社会に溶け込んで行った。オスカル2世も[[スウェーデン語]]を完全にマスターしていたが、雄弁家としても知られ、スウェーデン語でを発表するなど[[スウェーデン人]]として振る舞った。とはいえ、この時代は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]への大規模な[[北米]][[移民]]が続いた。また外交政策では一貫して中立政策をとり、[[19世紀]][[ヨーロッパ]]に起きた[[帝国主義]]とは一線を画した。そして[[ドイツ統一]]によって台頭した[[ドイツ帝国]]の登場は、[[ロシア帝国]]に対するバランサーとして歓迎した。オスカル2世は国民にとって魅力ある国王ではあったが、ドイツ帝国の盟主[[プロイセン王国]]との結び付きは、[[政府]]、[[国民]]の非難を浴びた。スウェーデンでは、[[民主主義]]が根付き初め、国王が[[外交]]に関わることを拒んだのである。スウェーデン人は、過去の親フランス感情から、親ドイツ感情へ移行したとは言え、基本は[[中立主義]]を指針としていた。しかしオスカル2世は、[[汎ゲルマン主義]]に傾き、ロシアからの盾として、ドイツ・[[スカンディナヴィア]][[国家連合]]を構想するのである。当然ながら、スウェーデン政府と隣国[[デンマーク]]の非難を浴びてしまい、国王の国家統治権、[[王権]]は形骸化し、象徴制へと移行していく事となった。
 
オスカル2世は国民にとって魅力ある国王ではあったが、ドイツ帝国の盟主[[プロイセン王国]]との結び付きは、政府、国民の非難を浴びた。スウェーデンでは[[民主主義]]が根付き始め、国王が外交に関わることを拒んだのである。スウェーデン人は過去の親フランス感情から親ドイツ感情へ移行したとはいえ、基本は[[中立主義]]を指針としていた。しかしオスカル2世は[[汎ゲルマン主義]]に傾き、ロシアからの盾としてドイツ・スカンディナヴィア国家連合を構想した。当然ながら、これはスウェーデン政府と隣国[[デンマーク]]の非難を浴び、国王の国家統治権、[[王権]]は形骸化、象徴化していくこととなった。
しかしこの時代は、スウェーデンの[[ナショナリズム]]が昂揚する時代であった。[[スヴェン・ヘディン]]を初めとした探検隊を[[中央アジア]]へ派遣し、また[[アドルフ・エリク・ノルデンショルド|ノルデンショルド]]は、史上初めて[[北極海]]を越え、[[北東航路]]を発見する([[1879年]])。そしてこの時代の最大の出来事は、[[アルフレッド・ノーベル|ノーベル]]による[[ノーベル賞]]の設立である([[1901年]])。この世界的な賞の設立は、オスカル2世の理解を得、[[スウェーデン・アカデミー]]として国王の儀礼となり、スウェーデン王国の栄誉と国威を非常に高まらせたのである。
 
しかしこの時代はまた、スウェーデンの[[ナショナリズム]]が昂揚する時代であった。[[スヴェン・ヘディン]]を初めとした探検隊[[中央アジア]]へ派遣し向かい、また[[アドルフ・エリク・ノルデンショルド|ノルデンショルド]]は史上初めて[[北極海]]を越え、[[北東航路]]を発見するした([[1879年]])。そしてこの時代の最大の出来事は、[[アルフレッド・ノーベル|ノーベル]]による[[ノーベル賞]]の設立である([[1901年]])。この世界的な賞の設立は、オスカル2世の理解を得、[[スウェーデン・アカデミー]]として国王の儀礼となり、スウェーデン王国の栄誉と国威を非常大いに高まらせのである
一方[[同君連合]]を取る[[ノルウェー]]では、[[1890年]]代に外交や内政問題で対立が顕著になる。ノルウェーでは世界第三位の海運国になるなど自立が更に進み、自国の領事館の設置を巡り両議会は対立する。オスカル2世はこのノルウェー議会の方針には反対の意を唱え、スウェーデン議会は国王の支持を取り付けて、領事館設置の法案を拒否する。ノルウェー議会は反発し、軍事衝突が懸念されたが、この時はノルウェー側が譲歩した。[[1905年]]結局両議会は、交渉が決裂。ノルウェー議会は連合の解消を宣言し、ノルウェー人による[[国民投票]]で圧倒的な独立の賛成を勝ち取る。スウェーデン政府はこの決定に反発し、軍を総動員し戦争の危機にまで至ったが、今やノルウェー独立必至を理解したオスカル2世は、スウェーデン議会と国民を説得し、困難な交渉の後、ノルウェーの分離独立が合意成されたのである。オスカル2世は、心からノルウェーの独立を了承したわけではなかったが、両国の安寧の為に止むを得なかったのである。心証を害し傷ついた老王に、1万人の[[ストックホルム]]市民が集まって、[[国王歌|スウェーデン王室歌]]を歌い、国王夫妻を慰めたのであった。
 
一方1814年以降スウェーデンとの[[同君連合]]を取る下にあった[[ノルウェー]]では、[[1890年]]代に外交や内政問題スウェーデンとの対立が顕著になった。ノルウェーは世界第3位の海運国になるなど自立が更に進み、自国の[[領事館]]の設置を巡り両議会対立するした。オスカル2世はこのノルウェー議会の方針には反対の意を唱え、スウェーデン議会は国王の支持を取りけて、領事館設置の法案を拒否するした。ノルウェー議会は反発し、軍事衝突が懸念されたが、この時はノルウェー側が譲歩した。[[1905年]]結局両議会は、交渉が決裂ノルウェー議会は連合の解消を宣言し、ノルウェー人によるで行われた[[国民投票]]で圧倒的な独立の賛成を勝ち取るで独立が支持された。スウェーデン政府はこの決定に反発し、軍を総動員し戦争の危機にまで至ったが、今やノルウェー独立必至であることを理解したオスカル2世は、スウェーデン議会と国民を説得し、困難な交渉の後、末にノルウェーの分離独立が合意成されに至っのである。オスカル2世は心からノルウェー独立を了承したわけではなかったが、両国の安寧の為にため止むを得かっしと決断しのである。心証を害し傷ついた老王に、1万人の[[ストックホルム]]市民が集まって[[国王歌|スウェーデン王室歌]]を歌い、国王夫妻を慰めたのであった。
 
国民的な誉れの高かったオスカル2世は、1907年に没した。
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== 家族 ==
オスカル2世は1857年に、[[ナッサウ公]][[ヴィルヘルム (ナッサウ公)|ヴィルヘルム]]の娘で、後に[[ルクセンブルク大公]]となるナッサウ公[[アドルフ (ルクセンブルク大公)|アドルフ]]の異母妹[[ゾフィア・フォン・ナッサウ|ソフィア・ヴィルヘルミナ・マリアナ・ヘンリエッタ]]と結婚した。2人の間には4男が生まれた。
*オスカル・'''グスタフ・アドルフ'''(1858 - 1950、[[グスタフ5世 (スウェーデン王)|グスタフ5世アドルフ]])
*'''オスカル'''・カール・アウグスト(1859 - 1953、[[ゴトランド島|ゴトランド]]公) [[フォルケ・ベルナドッテ]]伯の父
*[[カール (ヴェステルイェートランド公)|オスカル・'''カール'''・ヴィルヘルム]](1861 - 1951、[[ヴェステルイェートランド地方|ヴェステルイェートランド]]公)
*[[エウシェン (ネルケ公)|'''エウシェン'''・ナポレオン・ニコラウス]](1865 - 1947、[[ネルケ地方|ネルケ]]公)
 
== 関連項目 ==
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* [[元帥 (ドイツ)#海軍元帥|元帥 (ドイツ)]]
 
{{先代次代|[[スウェーデン君主一覧|スウェーデン国王]]|1872 - 1907|[[カール15世 (スウェーデン王)|カール15世]]|[[グスタフ5世 (スウェーデン王)|グスタフ5世]]}}
{{先代次代|[[ノルウェー君主一覧|ノルウェー国王]]|1872 - 1905|[[カール15世 (スウェーデン王)|カール4世]]|[[ホーコン7世]]}}
 
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