「宮本慎也」の版間の差分

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|利き腕 = 右
|打席 = 右
|守備位置 = [[遊撃手]]、[[三塁手]]
|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1994}}
|ドラフト順位 = ドラフト2位
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|年俸 = 2億2,000万円<br />※2009年からの2年契約中
|経歴 = <nowiki></nowiki>
* [[PL学園中学校・高等学校|PL学園高等学校]]
* [[同志社大学]]
* [[プリンスホテル硬式野球部|プリンスホテル]]
* [[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ<br />東京ヤクルトスワローズ]] (1995(1995 - )
|経歴補足題 = コーチ歴
|経歴補足 = <nowiki></nowiki>
* 東京ヤクルトスワローズ (2009(2009 - )
|代表チーム = {{Flagicon|JPN}}[[野球日本代表|日本]]
|五輪 = [[アテネオリンピック (2004年) における野球競技|2004年]]、[[北京オリンピックにおける野球競技|2008年]]
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{{by|2007年}}は手薄な野手のリーダーとしても期待され、これまでの出塁・進塁役から、ランナーを返す役割を期待される事も多くなった。その重圧にも負けず3割5本塁打の活躍。しかしこの年の巨人の優勝決定試合では巨人の一打サヨナラのチャンスにおいて[[清水崇行]]のゴロをとった後に一塁へ悪送球をしてしまい、優勝を決定させるサヨナラタイムリーエラーという大失態を犯してしまった。シーズンオフには再び日本代表のキャプテンに指名され、チーム首脳陣と選手をつなぐ重要な役割を果たした。[[星野仙一]]監督からは「成績に関係なく代表に選ぶつもりだった」と絶大な信頼を寄せられており、またナインからも監督の次に胴上げされている。契約更改では球団社長にスコアラーの増強や二軍室内練習場の早期設置などチーム強化を直訴しており、[[古田敦也]]、[[石井一久]]らの退団後名実共にチームを代表する選手となりつつある。
 
{{by|2008年}}の[[北京オリンピック野球日本代表]]では、前回アテネに引き続きキャプテンとしてチームを牽引し金メダル獲得を目指したが4位に終わり「キャプテンとして責任を感じる」と涙で敗戦の弁を語り、今回限りでの代表引退を臭わせる発言をした。シーズンオフの契約更改で39歳の2010年のシーズンまで年俸2億2000万円をベースに、各年最大8000万円の出来高で合意した(金額は推定)。また将来の監督候補のため来シーズンからコーチ兼任で指導者としての第一歩を踏み始めることになった。ちなみに幅広く経験を積むために打撃や守備、走塁などの担当部門に分けず全てを指導していくこととなった。<ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/081125/bbl0811251656003-n1.htm ヤクルト・宮本 コーチ兼任で2年契約 - MSN産経ニュース]</ref>また、2年続けてきた[[選手会長]]を[[新井貴浩]]に引き継いだ。
 
== 詳細情報 ==
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|style="text-align:center"|{{by2|2001}}
|125||578||477||74||129||15||0||1||147||17||11||6||<span style="color:red#ED1A3D">'''67'''</span>||1||27||0||6||57||8||.270||.317||.308||.625
|-
|style="text-align:center"|{{by2|2002}}
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|}
*2008年度シーズン終了時
*各年度の'''太字'''はリーグ最高、<span style="color:red#ED1A3D">'''赤字'''</span>は歴代最高
 
=== 年度別守備成績 ===