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'''堀江 利真'''(ほりえ としざね、? - [[長禄]]3年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]([[1459年]][[9月7日]]))は、[[室町時代]]中期の[[武将]]。妻は[[朝倉家景]]の娘
 
[[堀江氏 (藤原氏)|堀江氏]]([[堀江氏]])は、[[藤原利仁|利仁流]][[斎藤氏|河合斎藤氏]]の系統とされ、[[越前国|越前]]北部の番田(現[[あわら市]])に本拠を有していた[[国人]]衆(在地領主)である。堀江宗家では、代々「'''石見守'''」を名乗っており、利真もその例に倣って「石見守」と称していた。
 
利真は、[[長禄]]2年([[1458年]])から始まった[[守護]][[斯波義敏]]と[[守護代]][[甲斐常治]]との越前支配権を懸けた合戦([[長禄合戦]])で、守護側に与して[[甲斐氏]]や[[朝倉氏]]と対立する。
 
当初、利真は、京から越前に入ろうとする甲斐・朝倉連合軍を国境で押しとどめるなど、戦況を優位に進めていた。しかし、守護と守護代の対立を危惧した[[室町幕府]]が両者の和睦を調停したにもかかわらず、守護側がこれを受けいれなかったため、幕府が守護代側に肩入れするようになり、さらに、義敏が幕府の関東出兵命令に逆らって守護代側の[[金ヶ崎城]]を攻めて破れると、形勢は逆転する。
 
義敏が八代将軍[[足利義政|義政]]の怒りに触れて[[周防国|周防]]の[[大内教弘]]の元に落ちた後も、利真は、守護代側と対立していたが、長禄3年8([[1459年]])8月11日、越前国[[足羽郡]]和田荘の合戦で、'''[[朝倉 (7代当主)|朝倉孝景]]'''(英林孝景)に討ち取られた。
 
また、朝倉孝景(英林)の姉を嫁として迎えており、孝景とは義兄弟になる。
 
利真の死後、堀江[[庶家]]の[[堀江景用]]がその名跡を継いでいる。
 
== 関連項目 ==
*[[朝倉氏]]
*[[斯波氏]]