「橋本経子」の版間の差分

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観行院死去の事実は、庭田嗣子をはじめとした数人にしか知らされず、公式に発喪された14日までは和宮にさえ秘密にされた。何も知らない和宮は、観行院の死後もその回復を祈って[[お百度参り]]を続けており、居たたまれなくなった嗣子がそれを止めたという<ref>庭田嗣子の日記による。</ref>。
 
戒名は観行院光誉心月覚影大姉。遺体は5代[[徳川綱吉|綱吉]]の生母[[桂昌院]]や6代[[徳川家宣|家宣]]生母[[月光院]]ら将軍側室と同様の待遇を受け、[[増上寺]]の徳川家墓所准別当岳蓮社に寝棺によって埋葬された<ref>江戸時代には皇族など高位の者を除き、埋葬は徳川将軍でも座棺が一般的であった。このことからも幕府が先帝の寵妃であり和宮の生母である観行院に対して相当の厚遇をしていたことが伺われる</ref>。また、和宮を育てた功績により、朝廷から[[正五位]]の追贈を受けた。
 
観行院の墓所は[[昭和]]27年([[1952年]])、芝学園運動場拡張工事の際に発掘された。遺体は桐ヶ谷斎場にて火葬されて、新しく移設された合葬墓に11代家斉夫人[[広大院]]・13代家定夫人[[天親院]]を初めとした徳川夫人の遺骸と共に再埋葬された。将軍御台所や側室といった直接の配偶者ではなく、御台所の母という立場で徳川家の墓所に祀られている唯一の例である。