「市川中車 (7代目)」の版間の差分

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[[大正]]7年(1918年)10月、養子の[[市川中車 (8代目)|市川松尾]]に八代目八百蔵を襲名させると、自らは八百蔵の俳名「中車」を襲名、七代目[[市川中車]]を名乗る。
 
門閥外から幹部役者にまで出世した努力家で、師・九代目伝授の硬派な芸風が特徴的だった。『[[本太功記]]』や『[[時今也桔梗出世請状旗揚]]』(馬盥の光秀)の[[明智光秀|武智光秀]]、『[[新薄雪物語]]』の幸崎伊賀守、『[[妹背山婦女庭訓]]・吉野山』の大判事清澄、『[[菅原伝授手習鑑]]・寺子屋』の松王、『[[伊賀越道中双六]]・岡崎』の幸右衛門、『[[ひらかな盛衰記]]・逆櫓』の[[樋口兼光|樋口次郎]]など、[[時代物]]の立役を得意とした。また老女形も巧く、『[[菅原伝授手習鑑]]・道明寺』の覚寿はその後の手本となるほどの逸品だった。
 
東西の歌舞伎に通じた知識と豊富な経験は関係者に重宝がられた。特に、[[中村梅玉 (2代目)|二代目中村梅玉]]に死なれた[[中村鴈治郎 (初代)|初代中村鴈治郎]]は、中車をよく相手役に選んだ。