「北条長時」の版間の差分

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ちちぶ (会話 | 投稿記録)
疱瘡の記述は時継の記事にまとめる。
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| 主君 = [[藤原頼嗣]]、[[宗尊親王]]
| 氏族 = [[北条氏]]、[[北条氏 (極楽寺流)|極楽寺流]]
| 父母 = [[北条重時]]、[[平親]]の娘
| 兄弟 = [[北条時継|為時]]、'''長時'''、[[北条時茂|時茂]]、[[北条業時|業時]]、[[北条義政|義政]]、[[北条時|時]]、<br />[[北条時頼]]室([[葛西殿]]、[[安達泰盛]]室、[[宇都宮経綱]]室
| 妻 = [[北条時盛]]の娘
| 子 = '''[[北条義宗|義宗]]'''
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'''北条 長時'''(ほうじょう ながとき)は、[[鎌倉時代]]中期の[[武将]]。[[北条氏]]の一門。[[鎌倉幕府]]第6代[[執権]](在職:[[1256年]] - [[1264年]])である。
 
[[北条氏 (極楽寺流)|極楽寺流]]の祖である[[北条重時]]の[[嫡男]]。居所から'''赤橋長時'''(あかはし ながとき)とも称される。最後の執権・[[北条守時|北条(赤橋)守時]]、[[足利尊氏]]の正室[[赤橋登子]]の曾祖父にあたる。
 
重時の次男であったが、嫡男であった異母兄の[[北条時継|為時]]が幼少時に健康を損ねて[[廃嫡]]された事により、長時が嫡男となった。[[宝治]]元年([[1247年]])の[[宝治合戦]]後、長年京都で[[六波羅探題]]北方を務めた父重時が[[鎌倉]]へ戻り[[連署]]に就任したため、父の後任で六波羅探題北方に就任し、[[宗尊親王]]の将軍擁立に当たった。[[建長]]8年([[1256年]])に引退した父の跡を受けて[[鎌倉]]に戻り、[[評定衆]]に加わる。六波羅探題北方は弟[[北条時茂]]が就任した。同年11月に執権時頼が病で出家すると、時頼の[[嫡男]]・[[北条時宗]]に執権職を譲るまでの一時的な中継ぎとして6代執権に就任する。文永元年([[1264年]])7月、病により執権職を辞任して出家、叔父[[北条政村]]が7代執権となる。同年8月21日に35歳で死去。
 
== 備考 ==
父・重時と親交があった[[藤原定家]]の[[日記]]『[[明月記]]』[[嘉禎]]元年10月29日条に、当時六波羅探題であった重時の6歳になる次男が[[疱瘡]]で死んだという誤報が[[京都]]で流れたという記述がある。この次男は当時6歳であった長時のことであると考えられている。
 
== 経歴 ==