「北条長時」の版間の差分

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| 死没 = [[文永]]元年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]([[1264年]][[9月12日]])
| 改名 = 長時、専阿
| 別名 = 次郎、赤橋長時
| 墓所 = [[鎌倉市]][[扇ヶ谷]]の泉谷山[[浄光明寺]]
| 官位 = [[従五位|従五位下]]、[[左近衛将監]]、[[武蔵国|武蔵]][[国司|守]]、従五位上
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| 特記事項 =}}
 
'''北条 長時'''(ほうじょう ながとき)は、[[鎌倉時代]]中期の[[武将]]。[[北条氏]]の一門。[[鎌倉幕府]]第6代[[執権]](在職:[[1256年]] - [[1264年]])である。[[六波羅探題]]北方・[[連署]]を務めた[[北条重時]]の[[嫡男]]。[[北条氏 (極楽寺流)|北条氏極楽寺流]]の嫡家・[[北条氏 (赤橋流)|赤橋流]]の租
 
[[北条氏 (極楽寺流)|極楽寺流]]の祖である[[北条重時]]の[[嫡男]]。居所から'''赤橋長時'''(あかはし ながとき)とも称される。最後の執権・[[北条守時|北条(赤橋)守時]]、[[足利尊氏]]の正室[[赤橋登子]]の曾祖父にあたる。
 
重時の次男であったが、嫡男であった異母兄の[[北条時継|為時]]が幼少時に健康を損ねて[[廃嫡]]された事により、長時が嫡男となっされた。[[宝治]]元年([[1247年]])の[[宝治合戦]]後、長年京都で[[六波羅探題]]北方を務めた父重時が[[鎌倉]]へ戻り[[連署]]に就任したため、父の後任で六波羅探題北方に就任し、[[宗尊親王]]の将軍擁立に当たった。[[建長]]8年([[1256年]])に引退した父の跡を受けて[[鎌倉]]に戻り、[[評定衆]]に加わる。六波羅探題北方は同母弟[[北条時茂|時茂]]が就任した。同年11月に執権時頼が病で出家すると、時頼の[[嫡男]]・[[北条時宗]]に執権職を譲るまでの一時的な中継ぎとして6代執権に就任する。文永元年([[1264年]])7月、病により執権職を辞任して出家、叔父[[北条政村]]が7代執権となる。同年8月21日に35歳で死去。
 
== 経歴 ==
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{{先代次代|[[北条氏 (極楽寺流)|極楽寺流北条氏]]第2代|[[北条氏 (赤橋流)|赤橋流]]初代|[[北条重時]]|[[北条義宗]]}}
 
{{Japanese-history-stub}}
{{DEFAULTSORT:ほうしよう なかとき}}
[[Category:鎌倉時代の武士]]
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[[Category:1230年生]]
[[Category:1264年没]]
{{Japanese-history-stub}}
 
[[en:Hōjō Nagatoki]]