「ヨハン・ゲオルク・ハーマン」の版間の差分

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Hideki1976 (会話 | 投稿記録)
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==生涯==
===生い立ち ===
1730年に、外科医の長男として[[カリーニングラード|ケーニヒスベルク]]に生まれる。当地出身の哲学者・カントより6歳年下である。両親は非常に教育熱心でハーマンも幼少期から[[フランス語]]、[[ギリシア語]]、絵画、音楽など様々な教育を受けていた。しかし、教師の力量不足で語学に関しては不適切な教育を受けていたため、普段の会話から軽快で分かり易さを旨とした文法をうまく使うことはできなかったという。このことがいい意味でも悪い意味でも後のハーマンの難解な文章を生み出す機縁であったと言われている。1746年にケーニヒスベルクにあるアルベルトゥス大学(ケーニヒスベルク大学ではない)に神学生として入学。哲学から物理学まで受け持っていたクヌッツェン教授の弟子になる。[[マルティン・クヌッツェン|クヌッツェン]]は、カントに[[ニュートン力学|ニュートン物理学]]を教えた人物でもあり、この縁でカントとハーマンが知友になったといわれている。当時ケーニヒスベルクは、[[敬虔主義|ピエティスムス]](敬虔主義)の牙城であり、クヌッツェンは、ピエティスムスと当時旺盛していた啓蒙主義との調和を目指していた。(このことはカントにも言えることだが)こうした思潮はハーマンにも少なからぬ影響を受け与えた。ハーマンの思想の核心にもなる「神へのへりくだり」(Herunterlassung Gottes)という概念は直接にはクヌッツェンの思想に由来する(カントもこの表現は使わないが、後に宗教論にあたる「単なる理性の限界内における宗教」においてこれと類似する考え方を示している) 。
 
しかし、クヌッツェン以上にハーマンに影響さらにあたを与えたのはクヌッツェンではなく、当大学でイギリス哲学を講じていた[[カール・ハインリヒ・ラポルト]]であろう。彼は、啓蒙思想に傾倒し、イギリス哲学やフランス哲学をハーマンら学生に教えていた。このことは、ハーマンを神学から遠ざけて、詩学や文献学、芸術、美学などに興味を持たせることになった。特にハーマンはフランス思想などに憧れていたという。また、ハーマンの人生を決定付けることになる友人[[ヨハン・クリストフ・ベーレンス]]と[[ヨハン・ゴットヘルフ・リントナー]]と共同で雑誌「ダフネ」(Daphne)を発刊。道徳宗教社会などを論じたりし、中々の評判であった。このように、学生時代のハーマンには反啓蒙の精神はまだ現れていなかったといえる。
 
=== ロンドンでの回心 ===
1752年にハーマンは大学を中退し人生の進路に迷っていたが、友人であるベーレンスの計らいで、ベーレンス一家が[[リガ]]で経営する会社「ベーレンス商会」に就職した(ベーレンス商会は現在でいえば、[[商社]]のような組織であったらしい)。ベーレンスは、ハーマンに[[形而上学]]的体系を放棄させ、実用的な学問(現在でいう[[経済学]]か[[経営学]]に相応するもの)を身につけさせ、現実世界社会で役に立つ人間にさせようとする配慮からであった。といっても、現代の[[ビジネスマン]]というものには程遠く、実態はベーレンス商会の経済的理論を擁護する経済研究家であった。この頃のハーマンは近代国家の特徴を経済的活動という商業に求め、この[[重商主義]]を当時旺盛していた啓蒙思想と結び付けさせるという経済思想の研究に没頭していたという。ベーレンスは、ハーマンの英語とフランス語の能力を知っていたので、彼をおそらく貿易関連の仕事か、政治的な使者として[[ロンドン]]へと派遣した。1756年の事ある。当時、ケーニヒスベルクを治めていた東プロイセンは、[[ロシア]]からの侵略を受けていた。[[イギリス]]はプロイセンを支持し、援助しようとしていたので、それに関連した使命も兼ねてロンドンに派遣されたと思われるが、ハーマン自身、ロンドンへ行った目的を一生秘密にしていたので、このあたりの真相は不明である。ハーマンはかねてから英国に関する思想や文化の研究に熱中しており、このロンドンの地は第二の故郷と思っていた。途中、[[ベルリン]]で、後のライバルとなる[[モーゼス・メンデルスゾーン]]などを訪問した後、1757年にハーマンはロンドンへついた。
 
しかし、ハーマン自身によれば、大都市ロンドンはハーマンにとって冷たかった。はるか東プロイセンの生まれの人間の英語や立ち振る舞いが、ロンドンの人には奇異に映ったのであろうか。ロンドンの都市階層の人々の、ハーマンにとっては暮らし振りをおそらく初体験めて目暮ら当たりに振りはて、ハーマン著しい失望で自己喪失まで陥いらせた。おそらくベーレンス商会の仕事で、当地のロシア公使にも接触をしたが、無情にも門前払いにされた。ロンドンでの仕事も失敗に終わった。完全に自己を失ったハーマンはこのロンドンの地で誘惑にも負け、仕事の失敗もかねての憂さ晴らしで、暴飲暴食、さらには娼婦との[[性行為|情交]]までも日常的とし、ベーレンス商会から与えられたお金も全て使い果たしてしまい、人生のどん底にまで陥っていた。彼にすれば、この堕落した生活が日常から救済される唯一の手段であった。
 
1758年3月13日であった。心が飢えて廃人がかったハーマンの手の上に一冊の本があった。彼は、その書物を読むなり、彼は開眼した。ハーマンは、自身の罪深さを恥じた。この書物こそ、「[[聖書]]」に他ならない。ハーマンはこれほどまでに聖書と向き合ったこと今までになかった。ハーマンは、モーセ書まで読むにあたりついに「回心」したという。[[カイン]]の末裔として地上の放浪者だったハーマンは、キリストへの信仰、神の[[啓示]]へと向くことで、盲目で腐敗しきった生から解放された。同年の3月31日の夕方であったと明記している。これまでの根拠のない自己理性と自己意思に対する絶対的な信頼が打ち砕かれた。人間それ自身、盲目であるのに、如何にして自身の[[理性]]が他人に対して正しい道を示す光となりうる事が出来るのであろうか、ハーマンは自身の思想の根本をこのロンドンの地で手に入れることになった。
 
ハーマンのこのロンドンでの思想の転換期一般に「ロンドンでの回心」などと呼ばれている。このような自己の内省的記述はピエティスムスの思想家に顕著に見られる事でもあるが、歴史的には[[ブレーズ・パスカル|パスカル]]や[[アウグスティヌス]]などにも見られる。
 
1758年7月にハーマンはロンドンを離れ、リガへ帰国。ベーレンス商会はビジネスの失敗も咎めず、快くハーマンを迎え入れた。ハーマンはその後も、ベーレンス商会で職務にたずさわっていたが、ロンドンへ派遣される前とは明らかに態度が違っていた。ベーレンスもそのことに一種の疑念を抱いていた。ハーマンはこの頃「一人のキリスト者の聖書考察」と「我が生涯を憶う」を著す。
 
=== ケーニヒスベルクのソクラテス ===
1759年にハーマンは、ベーレンスの姉のカタリーナに求婚するが、ベーレンスはこれを拒否し、不快感を示す。また、回心後毎日神に祈りを捧げ、懺悔しているハーマンを見て、商人の精神を根付かせようとさせたベーレンスはさらに困惑する。結局破局に終わり、ベーレンス商会を辞めて、郷里であるケーニヒスベルクへと帰った。しかし心配したベーレンスはハーマンを有用な商人へと再び戻すため、友人でもある哲学者カントに協力を呼びかけ、ハーマンを説得させようと、ベーレンスもリガからケーニヒスベルクと急いだ。ベーレンスとカントはかつてハーマン自身も称賛していた有用な商人に戻そうと説得させようとしたが、焼け石に水であった。ハーマン自身はカントらの忠告には敬意を示しているがすものの、ただハーマン自身は、キリスト者にとっては神への祈りこそが仕事であるという。これは、当時のプロシアを支配していた[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]による啓蒙専制君主による国家支配に対する抗議であるとカントへ語っている上、自身の特異な考えも自覚しているようで、一概に無職者に甘んじたいということでもなかったと言われている。このような特異なハーマン自身の思想を綴ったともいえる、代表作でもある「ソクラテス回想録」である。
 
…続く