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慶長6年([[1601年]])2月に[[伊豆国|伊豆]]韮山より[[徳川氏]][[譜代]]の家臣・[[内藤信成]]が4万石で[[入封]]したことにより、駿府藩は立藩した。
 
慶長11年([[1606年]])4月3日、信成は[[近江国|近江]][[長浜藩]]に移封され、代わって[[大御所 (江戸時代)|大御所]]となった徳川家康が、駿府城に入ったため、駿府藩は廃藩となった。なお、家康は幕政を執行する立場にあったことから、駿河の政務は家康の側近である[[大久保長安]]や[[伊奈忠次]]、[[井出正次]]らによって行なわれている。
 
慶長14年([[1609年]])12月12日、家康の10男・[[徳川頼宣]]が50万石で入封したことから、駿府藩が復活する。ただし、頼宣は幼少の上、家康がなおも駿府城で幕政を見ていたことから、実際は家康の補佐を受けて頼宣が藩主になったものであり、藩政も[[本多正純]]や[[安藤直次]]ら家康の側近によって行なわれていた。[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])7月19日、家康没後、頼宣は[[紀伊国|紀伊]][[紀州藩|和歌山藩]]に移封され、駿府藩は廃藩となった。
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=== 明治時代 ===
 
[[慶応]]3年([[1867年]])の[[大政奉還]]により、江戸幕府は滅亡した。慶応4年([[1868年]])1月の[[戊辰戦争]]で徳川氏は明治新政府に敗れ、第15代将軍・[[徳川慶喜]]は朝敵となる。しかし閏4月29日、新政府の中核の1人である[[三条実美]]は徳川氏の存続に尽力し、慶喜に代わって田安亀之助([[徳川家達]])を徳川氏の相続者とし、5月24日には駿河・遠江・[[陸奥国|陸奥]]などで70万石を与えたのである。こうして、駿府藩が再立藩された。ちなみに、陸奥の領地は9月4日に[[三河国|三河]]に変更されている。
 
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内藤信成時代の駿府藩の内情は短期間のため、史料が少なく、藩政は詳しく分かっていない。
 
徳川頼宣時代の駿府藩は、[[大御所 (江戸時代)|大御所]]である家康のもと、その側近によって東海道の整備、金山開発、検地、駿府城の改築などが行なわれ、藩政の基礎が固められた。なお、家康は駿府を江戸の西を守る要衝と考えていたようで、駿府城は家康時代に大規模な改築がなされている。
 
徳川忠長時代の駿府藩は、忠長の乱行が目立っているが、その重臣である[[朝倉宣正]]や[[鳥居成次]]らによって無難なく行なわれている。