「徳川重好」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
法名・戒名
やりたこ (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
18行目:
 
== 生涯 ==
[[延享]]2年([[1745年]])2月15日、9代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家重|家重]]の次男として生まれる。[[幼名]]は'''萬二郎'''。[[松平氏|松平姓]]を称した。
 
[[天明]]8年([[1788年]])5月、[[御庭番]][[高橋恒成]]は[[清水徳川家]]に関して、'''「御取締り宜しからず候由」'''と報告書を記している。具体的には、家臣の[[長尾幸兵衛]]が清水家の財政を私物化していると指摘している。また、『よしの冊子』では、長尾は3万両を[[田沼意次]]に献金し、重好を[[征夷大将軍|将軍職]]に就けようと目論んだと示唆している。[[寛政]]7年([[1795年]])7月8日、死去。{{享年|1745|3|17|1795|8|22}}。
 
== 重好死後の清水家 ==
重好には嗣子がなかったため、清水徳川家は空席なる。その際、領地・家屋敷は一時的に[[江戸幕府|幕府]]に収公されている。収公は将軍[[徳川吉宗|吉宗]]の意向に背くものであったため、同年7月、[[一橋徳川家]]当主の[[徳川治済|治済]]は[[老中]][[松平信明 (三河吉田藩主)|松平信明]]らに強く抗議している。治済は7男亀之助(後の[[松平義居]])による相続を考えていたようである。その後の清水家は、第11代将軍[[徳川家斉|家斉]]の5男[[徳川敦之助|敦之助]]が継承している。
 
== 経歴 ==
30行目:
* [[1753年]]([[宝暦]]8年) - 賄料3万石を賜る。
* [[1758年]](宝暦8年)12月1日 - 清水門内の邸宅に定住。
* [[1759年]](宝暦9年)9月29日 - [[元服]]して重好と名乗り、[[徳川氏|徳川姓]]を称することが許される。[[従三位]][[近衛府|左近衛権中将]]兼[[宮内省|宮内卿]]に叙任。
* [[1762年]](宝暦12年)5月15日 - [[武蔵国]]・[[上総国]]・[[下総国]]・[[甲斐国]]・[[大和国]]・[[播磨国]]・[[和泉国]]内に10万石を賜う。
* [[1781年]]([[天明]]元年)12月5日 - [[参議]]に補任。