「バロン・フォン・ラシク」の版間の差分

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Hardway (会話 | 投稿記録)
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[[1977年]]3月には[[ノースカロライナ州]][[グリーンズボロ (ノースカロライナ州)|グリーンズボロ]]で馬場の[[PWFヘビー級王座]]に、また同年5月には[[札幌市|札幌]]で[[ジャンボ鶴田]]の[[ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座|UNヘビー級王座]]に挑戦している。[[1981年]]の[[世界最強タッグ決定リーグ戦]]には「青銅の爪」[[キラー・カール・クラップ]]との「クロー・コンビ」で参戦したが、二人とも明らかに全盛期を過ぎており、馬場&鶴田、[[ザ・ファンクス]]、[[ブルーザー・ブロディ]]&[[ジミー・スヌーカ]]、[[ハーリー・レイス]]&[[ラリー・ヘニング]]、[[タイガー・ジェット・シン]]&[[上田馬之助 (プロレスラー)|上田馬之助]]、[[ザ・シーク]]&[[マーク・ルーイン]]といった強豪の中に入っては下位に甘んじるほかなかった。現役での来日はこれが最後となったが、ジャンボ鶴田が[[AWA世界ヘビー級王座|AWA世界ヘビー級王者]]としてアメリカで防衛戦を行った時にラシクも挑戦している。
 
アメリカではトップクラスの[[ヒール (プロレス)|ヒール]]として、AWAやWWWFの他、[[NWA (プロレス)|NWA]]の主要テリトリーでも活躍。南部エリアでは[[ダスティ・ローデス]]と抗争し、[[アンドレ・ザ・ジャイアント]]とのシングルマッチも各地で組まれた。タッグ・プレイヤーとしても才能を発揮し、AWAではパワーファイターの[[スーパースター・ビリー・グラハム]]、ラフファイターの[[マッドドッグ・バション]]、技巧派のホースト・ホフマンなど、それぞれタイプの異なるパートナーとのチームで実績を残している。[[WCW]]の前身である[[ジム・クロケット・プロモーションズ|NWAミッドアトランティック地区]]では[[ポール・ジョーンズ (プロレスラー)|ポール・ジョーンズ]]や[[グレッグ・バレンタイン]]とのコンビでNWA世界タッグ王座も獲得した。
 
[[1982年]]頃に古巣のAWAで[[ベビーフェイス (プロレス)|ベビーフェイス]]に転向し、[[クラッシャー・リソワスキー]]とベテラン・コンビを結成。なお、[[ロード・ウォリアーズ]]が[[1984年]]8月にAWA世界タッグ王座を奪取した時の王者チームがクラッシャーとラシクのチームである。ウォリアーズとはその後、ミッドアトランティック地区でも抗争。[[1988年]]には'''ザ・バロン'''の名前で[[WWE|WWF]]と短期間契約し、パワーズ・オブ・ペイン([[シオネ・ヴァイラヒ|ザ・バーバリアン]]&[[テリー・スゾピンスキー|ザ・ウォーロード]])の[[マネージャー (プロレス)|マネージャー]]を務めた。