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{{クラシック音楽}}
'''ヴィリー・ブルメスター '''('''''Willy Burmester''''', [[1869年]][[3月16日]] [[ハンブルク]] - [[1933年]][[1月16日]] [[ハンブルク]])は[[ドイツ]]の[[ヴァイオリニスト]]。
([[1869年]][[3月16日]] [[ハンブルク]] - [[1933年]][[1月16日]] [[ハンブルク]])
 
[[ドイツ]]の[[ヴァイオリニスト]]。ベルリン高等音楽学校で[[ヨーゼフ・ヨアヒム|ヨアヒム]]に学ぶ。[[1885年]]に古典的な純粋な様式美よりも、超絶技巧に磨きをかけようとの目論みから、[[ベルリン]]のヨアヒムの許を去る。
 
作曲者本人に招かれて、[[サンクトペテルブルク]]で[[チャイコフスキー]]の[[ヴァイオリン協奏曲 (チャイコフスキー)|協奏曲]]のソリストを務めたことがある。後にチャイコフスキーのいくつかの作品をヴァイオリン独奏用に編曲した。ほかにも、[[バッハ]]のいわゆる≪G線上のアリア≫や、[[クリスチャン・シンディング]]などの北欧の作曲家の作品を、アンコール・ピースとして編曲している。
 
[[1895年]]まで[[ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団]]で[[コンサートマスター]]をつとめ、フィンランドの楽譜出版商コンラッド・ファーゼル Konrad Fazer の姉妹でピアニストのナエマ Naëma と結婚した。[[シベリウス]]とも面識があり、シベリウスの[[ヴァイオリン協奏曲 (シベリウス)|ヴァイオリン協奏曲]]の初期稿に助言を与えた。ブルメスターに、チャイコフスキーにも匹敵する作品になると激励されたシベリウスは、当初はこの作品をブルメスターに献呈するつもりだったというが、初稿ならびに改訂稿のそれぞれの初演に、ブルメスターは都合をつけられず、みすみす歴史的名作の被献呈者となる機会を逃してしまう。その後ブルメスターはシベリウスの協奏曲を演奏しなかったという。
 
ブルメスターは、[[ハンス・フォン・ビューロー]]にも認められたほど高度な腕前の演奏家であり、あらゆる楽派の作品を十分に演奏できるだけの幅広い趣味をそなえていた。おはこは[[パガニーニ]]の作品だったが、しかしながら古典的な作品の演奏はやや冷淡で、情感に欠けていたと伝えられる。ヨーロッパ大陸では非常に高い評価を受けていたが、イギリスやアメリカで初めて演奏した際は、聴衆を感動させることができなかった。それでも左手のピチカートや、重音奏法による急速なパッセージのように、驚異的な超絶技巧で聴衆をひき込むことができた。ブルメスターの演奏はイントネーションが不完全で、それがいくらか成功の妨げになったようだ。後年になってこのような欠点はかなり改善され、高年のブルメスターの演奏に接した者は、掛け値なしの美点に大いに感銘を受けている。〔ブルメスターは音楽活動が滞りがちで、親指の付け根を痛めたために、心なしか、かなりの苦痛を感じていたようだ。He has been somewhat hampered in his career, and has been a considerable sufferer from having worn the end of his first finger down to the nerve. 〕
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[[1923年]]に訪日し、演奏会を行うとともに、自作の小品をアコースティック録音した。[[あらえびす]]こと野村胡堂が伝えたところによると、リサイタル当日は聴衆の入りが悪くて落胆したということらしい。
 
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