「沮渠蒙遜」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
衛攸之 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
トホホ川 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
22行目:
}}
 
'''沮渠蒙遜'''(そきょもうそん)は[[五胡十六国時代]]の[[北涼]]の第2代王。北涼の実質的建国者。臨松([[甘粛省]][[張掖市]])盧水胡の出身。盧水胡は『[[晋書]]』載記では[[匈奴]]の支族とされているが、他にも[[月氏]]説、独自の少数民族説などがある。
 
代々盧水胡の族長の家に生まれた。優れた才能があり、権謀に通じていたため、[[後涼]]の王[[呂光]]らに恐れられた。このため常に酒を飲んで彼らの目を欺いたという。
 
[[397年]]、[[西秦]]討伐の失敗の責任をとらされて伯父沮渠羅仇・麹粥兄弟が呂光によって誅殺されると、その葬儀の席で宗族数万人の前に呂光の非道を糾弾、後涼からの自立を宣言して挙兵。従兄弟の沮渠男成と協力して建康(甘粛省[[酒泉市]])に迫り、後涼の建康[[太守]]で漢人の[[段業]]を擁立した。これが北涼の建国である。
 
[[401年]]、策を弄して沮渠男成と段業を殺害、自ら[[涼州]][[牧]]・張掖公を称し北涼の支配者となる。
35行目:
 
[[433年]]病死、享年66。北魏はその葬儀に使節を派遣し、武宣王と追諡した。
 
==伝記史料==
*『[[魏書]]』巻九十九 列伝第八十七 盧水胡沮渠蒙遜伝
*『[[北史]]』巻九十三 列伝第八十一 沮渠蒙遜伝
 
{{先代次代|[[北涼]]の[[中国帝王一覧|王]]|401年 - 433年|[[段業]]|[[沮渠牧犍]]}}