「大久保忠鎮」の版間の差分
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大身旗本の大久保豊前守忠貞(5000石)の四男として誕生。家督は長兄忠重が継いだため、忠鎮は別家を興した。[[明暦]]3年([[1657年]])6月25日はじめて将軍[[徳川家綱]]に拝謁。[[万治]]2年([[1659年]])7月11日書院番に列した。[[寛文]]元年([[1661年]])12月12日に切米300俵を支給され、寛文9年([[1669年]])閏10月18日勤務が精勤であるため黄金2枚を受けた。しかし40年近く書院番からの出世はなく、[[元禄]]10年([[1697年]])9月15日になってようやく[[目付]]に就任した。12月18日に[[布衣]](六位相当になったことを意味する)の着用を許された。22日に200表を加増され、さらに28日には切米を所領に改められて、上野国群馬郡、緑野郡、多胡郡において都合500石を領した。元禄13年([[1700年]])3月15日には[[徳川家光]]の五十回忌の式典に出席するために[[日光山]]へ赴いた。
元禄14年([[1701年]])3月14日、[[播磨国]][[赤穂藩]]主の[[浅野長矩|浅野内匠頭長矩]]が[[江戸城]]内にて[[高家 (江戸時代
元禄15年([[1702年]])6月3日には[[出羽国]][[庄内藩]]主[[酒井忠真|酒井左衛門尉忠真]]に預けられていた[[本多政利|本多出雲守政利]]の家臣久林八大夫と清水源左衛門の取調べを命じられて庄内に赴いた。しかしこの時の取調べが怠慢であったとして逼塞を命じられ、12月24日には許されたものの目付職は取り上げられて小普請(無役の小旗本)にされた。また将軍拝謁も禁止されたが、元禄16年([[1703年]])4月25日に将軍拝謁は許された。[[正徳 (日本)|正徳]]元年([[1711年]])9月20日に死去。[[享年]]74。本妙寺に葬られた。法名は日休。家督は長男の忠興が継いだ。
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