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== 生涯 ==
=== 京都に雌伏 ===
父の満純は[[応永]]23年([[1416年]])に[[外祖父]](異説あり)の[[上杉禅秀の乱]]で[[上杉禅秀|禅秀]](氏憲)に味方し、応永24年([[1417年]])に[[鎌倉公方]][[足利持氏]]による追討を受けて処刑されている。
 
父の死後、祖父の[[岩松満国|満国]]によって9歳の家純は廃嫡されたために[[家督]]を継げず、10月に家臣に伴われて[[安養院 (鎌倉市)|長楽寺]]で[[出家]]した。そして[[室町幕府]]の追討を恐れて西国に逃れた。
 
しかし[[永享の乱]]後に6代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義教]]によって罪を赦免されて[[還俗]]した。これは満純の死後、岩松家を継いだ[[いとこ|従弟]](満純の弟[[岩松満春|満春]]の子)の[[岩松持国]]が鎌倉公方[[足利持氏]]派であったため、家純を幕府派として擁立しようという義教の策略だったといわれる。このため、岩松氏は[[五十子陣|五十子]]に所領を持つ家純と、[[新田荘遺跡|新田庄]]に所領を持つ持国の礼部家と京兆家に分裂した。
 
=== 幕府側として復帰 ===
持氏父子の敗死後、関東で[[結城合戦]]が勃発、家純は幕府方につき、持国は結城方についた。[[嘉吉]]元年([[1441年]])に幕府方の勝利に終わったが、6月24日に義教が[[赤松満祐]]に[[暗殺]]される事件が発生([[嘉吉の乱]])、家純は後ろ盾を失い帰京、持国は新田庄に返り咲いた。
 
やがて鎌倉公方復興が取り沙汰されて、持氏の子・[[足利成氏|成氏]]は鎌倉公方に就任したが、幕府派の[[上杉氏]]と対立、[[享徳]]3年([[1454年]])に[[関東管領]][[上杉憲忠]]を暗殺、[[享徳の乱]]が始まった。家純は[[上杉氏]]に味方し、関東に下向した。尚、同年に家純の代官として出陣した[[横瀬貞国 (室町)|横瀬貞国]]は、[[武蔵国|武蔵]][[須賀合戦]]で成氏方と戦って討死した。
 
[[京都市|京都]]で生まれた子の[[岩松明純|明純]]は父に同行せず、在京のまま幕府に出仕、[[政所]]代[[智蘊|蜷川親当]]の娘を娶って[[岩松顕純|顕純]]、[[岩松尚純|尚純]]をもうける。後に明純も尚純を連れて[[文明 (日本)|文明]]3年([[1471年]])に関東に下向するが、[[越後国|越後]][[守護]][[上杉房定]]が嫡男の[[上杉定昌|定昌]]を関東に残して越後に帰還した事を家純に聞くことが任務であった。つまり、明純は幕府代官として関東に派遣されたと思われる。