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本間美術館所蔵品は、平安時代末期の嘉応2年(1170年)から室町時代の応永30年(1423年)まではほぼ揃っており、信濃や越後・甲斐の情勢を伝える貴重な一級資料とされ、地頭職にあったことから根本資料(当時の公文書)である鎌倉幕府下文・官宣旨・国宣などが含まれる。ただ、残存状況が室町初期までの時代に偏り、戦国時代の文書は永禄12年(1569年)10月12日付市河新六郎宛武田家朱印状のみが現存している。
 
その後の調査で、[[米沢市]]在住の個人所有18通(本間家の手に渡る前に散逸した一部)が発見され、更に昭和44年にはNHK大河ドラマ『[[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]]』の影響もあり釧路市で市河氏の子孫が受け継いでいた文書(本間美術館所蔵品の控えを含む)が発見された。釧路で発見された文書は中世から近世の古文書や系図などの文書群で、中でも武田氏家臣の伝説的軍師「山本勘助」の実在性を裏付ける可能性のある書状が含まれていることで注目されている。昭和51年には釧路市文化財に指定された。また、[[長野県立歴史館]]の所蔵する[[長野県立図書]]館旧蔵文書のなかにも2通の文書が含まれていることも確認されている。2009年には北海道の個人所有文書を山梨県が購入し、[[山梨県立博物館]]へ収蔵される。
 
*[[本間美術館]] 146通(16巻)([[山形県]][[酒田市]])- 国の重要文化財
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この文書の評価を巡っては、[[上野晴朗]]ら勘助の実在性を示す文書として積極的評価する立場がある一方で、武田家中に「山本管助」と称する家臣が存在することを示すのみの文書であるとし、『軍艦』に記される人物像に関しては不確実とする慎重な立場もある。
 
弘治3年文書は、『[[戦国遺文]]』『[[山梨県史]]』に収録されている。また、2008年には[[安中市ふるさと学習館]]・[[山梨県立博物館]]による[[群馬県]][[安中市]]の真下家文書の調査において、3通の「山本菅助」宛文書を含む武田氏関係文書が確認された<ref>海老沼真治「群馬県安中市 真下家文書の紹介と若干の考察-武田氏・山本氏関係文書-」『山梨県立博物館研究紀要第3号』(2009)</ref>
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考文献 ==
* 須藤茂樹「ある一国人の動向・武田から上杉へ-「市河文書を素材として-」『大河ドラマ特別展風林火山 信玄・謙信、そして伝説の軍師』(2007年)
 
== 外部リンク ==