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'''中川 秀成'''(なかがわ ひでしげ、[[1570年]]([[元亀]]元年)- [[1612年]][[9月9日]]([[慶長]]17年[[8月14日 (旧暦)|8月14日]]))は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]([[大名]])。[[豊後国]][[岡藩]]初代藩主。
 
[[中川清秀]]の次男。母は[[熊田宗白]]の娘。[[中川秀政]]の弟。正室は[[佐久間盛政]]の次女([[新庄直頼]]の養女)・[[虎姫 (中川秀成室)|虎姫]]。子は[[中川久盛]](次男)、娘([[水野元綱]]正室)。
 
== 経歴 ==
[[1583年]]([[天正]]11年)、父・清秀が[[賤ヶ岳の戦い]]で戦死した後、家督は兄の秀政が継いでいた。しかし、その秀政も[[暗殺]]され早世してしまったため、その跡と遺領[[播磨国]]6万6000石を継いで[[豊臣秀吉]]に仕えることとなった。秀吉から豊後岡に7万4000石の所領を与えられ、[[1597年]](慶長2年)からの[[文禄・慶長の役|慶長の役]]では[[藤堂高虎]]に属して戦った。
 
[[1600年]](慶長5年)の[[関ヶ原の戦い]]では東軍に与して西軍に与した[[臼杵城]]の[[太田一吉]]と戦い、勝利した(ただし西軍にも部隊を送っている)。その功績により戦後、[[徳川家康]]から所領を安堵された。