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[[ファイル:Chiang Kai-shek and his wife.jpg|thumb|220px|{{lang|zh|蔣}}介石と宋美齢]]
しかし一方では、[[二・二八事件]]における数々の虐殺行為や、[[戒厳令]]を敷き、白色テロによる支配を行ったため、「[[アメリカ合衆国|アメリカ]]は、日本には[[原子爆弾|原爆]]を落としたが、台湾には蔣介石を落とした」として、(特に[[本省人]]の間には)根強い拒否反応を持つ人が多い。また、{{lang|zh|蔣}}介石が本省人知識階級を大量虐殺し、日本語の使用を完全に禁止<ref>当時の台湾人は日本語の文献を通じて世界の最先端知識を学んでいた。</ref>したために、台湾経済の発展は大きく後退したとの説もある(台北二二八紀念館の資料等)。また、{{lang|zh|蔣}}介石が「反攻大陸」のことを第一に考えたためアメリカや日本などの説得を無視して、国際連合を脱退してしまった。そのため、台湾は現在の様な国際的に国家としては承認されない状況に陥ってしまったと考える者は少なくない。そのため息子の{{lang|zh|蔣}}経国などと比べると本省人の間では評価が低い。
 
蔣介石は、息子の蔣経国への中華民国の支配権の世襲を準備した。世襲は、共和国の権力委譲としては不適切であったが、蔣経国は、最後まで「反攻大陸」を望んでいた父親とは全く別の道を歩んだ。経国は、いくつもの特務機関や秘密警察を使って台湾人への過酷な支配を続ける一方で、「私も台湾人だ」と発言、台湾の経済復興政策・民主化政策・本省人登用政策などの[[台湾本土化]]政策を推進したのである。
 
[[戴国煇]]は「({{lang|zh|蔣}}介石は)政治的にも軍事的にも戦術家としては一流であったが、戦略家の器ではなかった」と評し、後継者を息子の経国に指名したことを「毛沢東は[[周恩来]]を信じられたが、{{lang|zh|蔣}}介石は息子以外誰も信じることができなかった。[[陽明学]]の信徒としての限界ではないか」としている。