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== 太陰太陽暦の暦法 ==
=== 東洋の暦法 ===
原則的には太陰暦と同じ[[朔望月]]29.53日、太陰年354.36705日を用いていたが、農耕に適するように何年かに1回[[閏月]]を加えることで調整を行った。
原則的には太陰暦と同じ[[朔望月]]29.53日、太陰年354.36705日を用いていたが、農耕に適するように何年に一度か[[閏月]]を加えることで調整を行った。中国において行われたのは、季節を知らせる[[二十四節気]]を挿入する方法であった。これは[[冬至]]から次の冬至までの[[太陽年]]を24等分して1ヶ月に2つの節気が含まれることとした。そのうちその月の節気の前者を「[[節]]」、後者を「中」あるいは「[[中気]]」と呼び、「中気」は暦月に必ず1つ入る原則とされていた。「中気」には冬至・大寒・雨水・春分・穀雨・小満・夏至・大暑・処暑・秋分・霜降・小雪があり、その間隔は30.346日である。ところが、実際の暦月は太陰暦と同様に30日と29日の交互であったために、時々「中気」が暦月に入らない月が出現する。その月を前の月の閏月と規定して正規の月から外して、次に「中気」を含む月を翌月としたのである。その調整のために高度な計算が必要となり、しばしば改暦が行われる事となった。一方、「節」は[[暦注]]を定める際の参考とされ、節から節までの間を「[[節月]]」として区切った(「節切り」)。なお、24節気の名称は中国文明の中心とされた[[華北]]の季節状況に合わせて設定されており、日本や朝鮮半島、あるいは中国でも[[華南]]の季節状況は何ら勘案されていないことに注意を必要とする。更に24節気の下には[[72候]]というものもあった。また、中国においては「[[三正]]」という考え方があり、[[夏 (三代)|夏]]は雨水を、[[商 (三代)|商]]は大寒を、[[周]]は冬至を含む月を年始として採用した。これは他者の暦を用いることは従属の証として考えられたために、前王朝を倒すと、その否定のために前王朝と違う「中気」を持つ月を年始と定めたことによる。このため、政権交代のたびに年始が三正の間で移動したが、[[漢]]以後は、夏の制度を用いてただ王朝交代のたびに改暦を行うに留めるようになった。なお、[[黄道]]上における太陽の見かけの動きは冬には早く、夏には遅く見える。そのため、太陽が黄道上を15度分進んだ期間に応じて節気を進める「[[定気]]」という手法も中国の[[時憲暦]]から採用され、日本では最後の太陰太陽暦となる[[天保暦]]でのみ採用された。
 
原則的には太陰暦と同じ[[朔望月]]29.53日、太陰年354.36705日を用いていたが、農耕に適するように何年に一度か[[閏月]]を加えることで調整を行った。中国において行われたのは、季節を知らせる[[二十四節気]]を挿入する方法であった。これは[[冬至]]から次の冬至までの[[太陽年]]を24等分して1ヶ月に2つの[[節気]]が含まれることとした。そのうちその月の節気の前者を「[[節]]」、後者を「中」あるいは「[[中気]]」と呼び、「中気」は暦月に必ず1つ入ることが原則とされていた。「中気」には冬至・大寒・雨水・春分・穀雨・小満・夏至・大暑・処暑・秋分・霜降・小雪があり、その間隔は30.346日である。ところが、実際の暦月は太陰暦と同様に30日と29日の交互であったために、時々「中気」が暦月に入らない月が出現する。その月を前の月の閏月と規定して正規の月から外して、その「中気」を含む月を翌月としたのである。その調整のために高度な計算が必要となり、しばしば改暦が行われることとなった。一方、「節」は[[暦注]]を定める際の参考とされ、節から節までの間を「[[節月]]」として区切った(「節切り」)。なお、24節気の名称は中国文明の中心とされた[[華北]]の季節状況に合わせて設定されており、日本や朝鮮半島、あるいはそれに中国でも[[華南]]の季節状況は何ら勘案されていないことに注意を必要とする。さら24節気の下には[[72候]]というものもあった。また、中国においては「[[三正]]」という考え方があり、[[夏 (三代)|夏]]は雨水を、[[商 (三代)|商]]は大寒を、[[周]]は冬至を含む月を年始として採用した。これは他者の暦を用いることは従属の証として考えられたために、前王朝を倒すと、その否定のために前王朝と違う「中気」を持つ月を年始と定めたことによる。このため、政権交代のたびに年始が三正の間で移動したが、[[漢]]以後は、夏の制度を用いてただ王朝交代のたびに改暦を行うに留めるようになった。なお、[[黄道]]上における太陽の見かけの動きは冬には早く、夏には遅く見える。そのため、太陽が黄道上を15度分進んだ期間に応じて節気を進める「[[定気]]」という手法も中国の[[時憲暦]]から採用され、日本では最後の太陰太陽暦となる[[天保暦]]でのみ採用された。
 
また、中国においては「[[三正]]」という考え方があり、[[夏 (三代)|夏]]は雨水を、[[商 (三代)|商]]は大寒を、[[周]]は冬至を含む月を年始として採用した。これは、他者の暦を用いることは従属の証と考えられたために、前王朝を倒すとその否定のために前王朝と違う「中気」をもつ月を年始と定めたことによる。このため、政権交代のたびに年始が三正の間で移動したが、[[漢]]以後は、夏の制度を用いてただ王朝交代のたびに改暦を行うに留めるようになった。
 
なお、[[黄道]]上における太陽のみかけの動きは冬には早く夏には遅く見える。そのため、太陽が黄道上を15度進んだ期間に応じて節気を進める「[[定気]]」という手法も中国の[[時憲暦]]から採用された。日本では最後の太陰太陽暦となる[[天保暦]]でのみ採用された。
 
=== 西洋の暦法 ===