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'''宍戸 元源'''(ししど もとよし、? - [[天文 (元号)|天文]]11年([[1542年]]))は、[[安芸国|安芸]]の国人[[宍戸氏]]の当主。父は[[宍戸元家#宍戸元家 (安芸守)|宍戸元家 (安芸守)]]。子は[[宍戸元家#宍戸元家 (弥三郎)|元家 (弥三郎)]]・[[宍戸隆忠|隆忠]]・[[吉川興経]]妻。[[宍戸隆家|隆家]]は孫。弟に[[深瀬隆兼]]、[[司箭院興仙]]。<br>安芸国[[五龍城]]を居城とした。
安芸国[[五龍城]]を居城とした。
 
[[1504年]]、父・元家が隠居、家督を継ぐ。[[大内義興]]の上洛には、他の安芸国人達とともに参加し、[[1511年]]の[[船岡山合戦]]にも参戦した。<br>帰国後は、近隣の国人[[毛利氏]]とたびたび抗争を繰り広げており、安芸国人衆が[[毛利興元]]を中心に[[国人一揆]]を結んだときも元源はこれに参加せず、独立性を保った。しかし、のちに[[毛利元就]]が[[高橋氏]]の旧領の一部を割譲するなどして元源に接近し、[[1534年]]に嫡孫・隆家の妻に元就の娘を迎え、毛利氏と和睦した。
帰国後は、近隣の国人[[毛利氏]]とたびたび抗争を繰り広げており、安芸国人衆が[[毛利興元]]を中心に[[国人一揆]]を結んだときも元源はこれに参加せず、独立性を保った。しかし、のちに[[毛利元就]]が[[高橋氏]]の旧領の一部を割譲するなどして元源に接近し、[[1534年]]に嫡孫・隆家の妻に元就の娘を迎え、毛利氏と和睦した。<br>
なお、嫡男・元家は元源より先に戦死していたので、家督をめぐる争いが起き、讒言により孫の隆家が叔父にあたる宍戸隆忠を殺害するという悲劇にも見舞われている。[[1538年]]元源は老齢のため隠居。家督は隆家が継いだ。<br>
[[1540年]]、[[尼子氏]]が毛利氏征伐の為、安芸吉田に侵攻した際には、五龍城で留守を守った。<br>
豪放な性格で、猛将として広く知られていたという。
 
なお、嫡男・元家は元源より先に戦死していたので、家督をめぐる争いが起き、讒言により孫の隆家が叔父にあたる宍戸隆忠を殺害するという悲劇にも見舞われている。[[1538年]]元源は老齢のため隠居。家督は隆家が継いだ。<br>[[1540年]]、[[尼子氏]]が毛利氏征伐の為、安芸吉田に侵攻した際には、五龍城で留守を守った。
[[1542年]]没。
 
[[1542年]]没。豪放な性格で、猛将として広く知られていたという。
 
{{先代次代|[[宍戸氏|安芸宍戸氏歴代当主]]|1504~1538|[[宍戸元家]]|[[宍戸隆家]]}}