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しまあじ (会話 | 投稿記録)
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'''堀 忠俊'''(ほり ただとし、[[1596年]]([[慶長]]元年)- [[1622年]][[2月2日]]([[元和 (日本)|元和]]7年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]))は、[[江戸時代]]の大名。[[越後国|越後]][[春日山城]]主。[[堀秀治]]の嫡男。正室は[[徳川家康]]の養女([[本多忠政]]の娘)[[栄寿院|国姫]]。
 
== 来歴 ==
慶長11年([[1606年]])、父の秀治が死去したため、その家督を継ぎ、[[越後国|越後]]45万石の太守となる。その以前に家老の[[堀直政]]の尽力により、[[徳川家康]]の外孫で[[本多忠政]]の娘百合姫を一旦[[徳川秀忠]]の養子としたうえで忠俊に嫁がせ、さらに秀忠から「忠」の一字と松平姓を賜っている。慶長15年([[1610年]])、直政の死後、家老の[[堀直清]]と[[堀直寄]]との間で争論が起き、家康に排除の口実を与えてしまう。忠俊は直清を擁護し、助命嘆願した。これが原因で、[[江戸幕府|幕府]]より「国を治める器量なし」と評されて忠俊と直清は[[改易]]、直寄は1万石減封の処分となった。
慶長11年([[1606年]])、父秀治の死去により家督を相続する。家老[[堀直政]]の尽力により、[[本多忠政]]の娘百合姫を[[徳川秀忠]]の養女として娶り、また秀忠から諱一字と松平姓を賜わるなど、急速に[[徳川氏]]に接近して家の存続を図っている。しかし、直政死後の慶長15年([[1610年]])、家老[[堀直清]]と[[堀直寄]]との争乱を発端とする御家騒動が勃発する。これにより、幕府は忠俊と直清を[[改易]]、直寄を1万石減封に処した。
 
その改易の忠俊は[[磐城平藩]]主[[鳥居忠政]]かりとなりけられ、[[茶道|茶の湯]]のみを楽しみとしていたと伝わる。享年26歳で没墓所は、[[福島県]][[いわき市]]平字胡摩沢にある[[曹洞宗]]淵室山長源寺(徳川家康の命により[[伏見城]]を死守した[[鳥居元忠]]供養のために建てられた寺)の墓域内に香華を手向ける人もなく、ひっそりと五輪塔が建つ
 
== その後の堀家 ==
堀宗家その後であるが、弟たちも[[堀鶴千代|鶴千代]]は早世、季郷(すえさと)[[日向国|日向]][[延岡藩]][[内藤氏]]に仕官している。子の季俊(すえとし)[[加賀国|加賀]][[前田氏]]に仕え、堀宗家の越後統治は13年で幕を下ろしたている
 
一方、主家の没落をよそに、元家老の直寄は着実に出世し、[[長岡城]]を建設、[[新潟町]]の基礎を築き、[[村上城|村上]]の城下町の整備も進める。越後の堀家は直寄の次男[[堀直時|直時]]の家系の[[村松藩]]3万石と直政の五男[[堀直之|直之]]の家系の[[椎谷藩]]1万石が残った。
 
越後国領主のその後であるが、当初松平忠輝や[[松平忠昌]]らの有力親藩が入部したが、後には[[新発田藩]]溝口家を除き、[[譜代大名|譜代]]、[[親藩]]、[[天領]]に細かく分割統治された。
 
一方、主家の没落をよそに、元家老の直寄は着実に出世し、[[長岡城]]建設[[新潟町]]発展基礎を築き寄与、[[村上城|村上]]の城下町の整備も進め越後の堀家は直寄の次男[[堀直時|直時]]の家系の[[村松藩]]3万石と直政の五男[[堀直之|直之]]の家系の[[椎谷藩]]1万石が残っ存続して[[明治維新]]を迎えた。
 
==参考文献==