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ホラズム・シャー朝とモンゴルの支配、参考文献
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'''ホラズム'''([[ウズベク語]] : '''Xorazm''')は、[[中央アジア]]西部に位置する歴史的地域。[[アラビア語]]ではフワーリズム(خوارزم Khwārizm)、[[ペルシア語]]ではハーラズム(خوارزم Khārazm)という。
 
[[アムダリヤ川]]の下流域、[[アラル海]]の南岸にあたり、現在は[[ウズベキスタン]]と[[トルクメニスタン]]に分割されている。中心都市は[[クフナ・ウルゲンチ|ウルゲンチ]]と[[ヒヴァ]]で、ヒヴァを中心とする中央部はウズベキスタン共和国の[[ホラズム州]]となっている。
 
東を[[キジルクム砂漠]]、南を[[カラクム砂漠]]に挟まれた乾燥地帯に位置するが、古くからアムダリヤ川の豊富な水資源を利用した[[灌漑]]が行われ、高い[[農業]]生産力に支えられた[[オアシス]][[都市]]が栄え、[[遊牧民]]の中継交易基地として経済的、文化的に進んだ地域であった。
 
== 古代のホラズム ==
 
ホラズム地方にあたるアムダリヤ川の下流域は、かつてはアムダリヤ川がアラル海に注ぎこむ一帯に生まれた[[三角州|デルタ]]地帯で、古くから[[イラン語群]]に属する[[ホラズム語]]を話す人々によってアムダリヤ川の豊かな水を利用した灌漑農業が行われてきた。発達した灌漑農業はオアシス都市を発展させ、都市は砂漠を越えた東の[[トランスオクシアナ]](アムダリヤ川中流域右岸、現ウズベキスタン中央部)、南の[[ホラーサーン]](トルクメニスタンから[[イラン]]北東部)などのイラン世界東方と、アラル海の向こうの[[ヴォルガ川]]流域方面とをつなぐ遠隔地交易の中継地として栄えた。この時代のホラズムには、イラン系の言語で「ホラズム王」を意味するホラズム・シャーの称号をもった君主がいたようである。
 
ホラズムは、[[8世紀]]に[[アラブ人]]によって征服され、[[9世紀]]頃には[[イスラム教]]を受容、[[ムスリム]](イスラム教徒)たちの残した記録からはっきりとした歴史がわかるようになる。
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ホラズムがイスラム化すると[[紀元前]]以来のイラン文明とイスラム文明が結びつき、当時の[[イスラム世界]]の高い学術水準の中でも最高峰を誇る[[フワーリズミー]]、[[ビールーニー]]など大学者を輩出した。
 
一方イスラム化を経ても、[[テュルク]]系遊牧民が盛んに訪れるホラズムは遠隔地交易の中継地としての性格を依然として保ち、アムダリヤ川右岸のカースを中心としてホラズム・シャーを称する土着イラン系の王朝アフリーグ朝による支配が行われていたことが知られる。[[10世紀]]にはアムダリヤ川左岸の[[ウルゲンチ]]を支配する土着君主マームーン朝が強大化してアフリーグ朝を併合し、かわってホラズム・シャーの称号を名乗るようになった。
 
[[11世紀]]になると、南の[[ホラーサーン]]地方から勢力を拡大した[[ガズナ朝]]による支配を受けるようになり、ガズナ朝に派遣されたテュルク系[[マムルーク]]出身の総督がホラズム・シャーを称した。[[1042年]]にはガズナ朝にかわってホラーサーンを制覇した[[セルジューク朝]]によって併合され、今度はセルジューク朝の派遣したテュルク系の総督が支配者となる。
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== ホラズム・シャー朝とモンゴルの支配 ==
[[Image:Khwarezmian Empire 1190 - 1220 (AD).PNG|300px|thumb|ホラズム・シャー朝の最大版図]]
 
[[1077年]]、セルジューク朝のマムルーク出身の将軍アヌーシュテギーンがホラズム総督に任命されるが、やがてその家系がホラズムの世襲支配を強め、[[12世紀]]にはホラズム・シャーを自称してセルジューク朝から自立していった。この[[イスラム王朝]]としては4つめとなるホラズム・シャーの王統を、ふつう[[ホラズム・シャー朝]]と呼んでいる。
 
12世紀を通じてホラーサーンからイランへと勢力を拡大していったホラズム・シャー朝は、[[13世紀]]初頭の[[アラーウッディーン・ムハンマド]]のとき[[ゴール朝]]を滅ぼし、[[西遼|カラキタイ]](西遼)を破って中央アジアからイランに至る最大版図を実現したが、[[1219年]]に始まる[[モンゴル帝国]]の[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]の攻撃により瓦解した。ホラズムはマーワラーアンナフルからアムダリヤ川を沿って侵入してきたモンゴル軍によって甚大な被害を受け、最後まで抵抗を続けて[[1222年]]春に陥落した首都ウルゲンチは徹底的に破壊された。
 
[[1231年]]には旧市の傍にウルゲンチが再建され、モンゴル帝国のもとで早々にホラズムの復興が始まった。第4代[[ハーン|大ハーン]]、[[モンケ]]の死後に起こったモンゴル帝国の騒乱で中央アジアの領土が西方の諸王家によって分割されると、チンギス・ハーンの長男[[ジョチ]]一門の[[ウルス]](所領)の領有に帰した。ホラズム地方は、以後[[ジョチ・ウルス]]と、イラン・ホラーサーンを支配する[[フレグ]]一門のウルス、[[イルハン朝]]との間で争奪されるが、[[バトゥ]]家のジョチ・ウルス歴代ハンと親族関係にある有力部族[[コンギラト]]が守るホラズムはジョチ・ウルスの陣営に保たれた。14世紀には、旅行家の[[イブン・バットゥータ]]がホラズムを訪れている。
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== ヒヴァ・ハン国の時代 ==
 
[[16世紀]]初頭、[[シャイバーン朝|シャイバーン家]]に率いられてマーワラーランナフルを征服し、[[ティムール朝]]を滅ぼした遊牧民集団[[ウズベク]]がホラズムにも侵入し、[[1512年]]にシャイバーン朝の一族イルバルスによって自立政権が立てられた。やがてアムダリヤ川の流路の東遷によってウルゲンチが衰退するとホラズムの首都は[[ヒヴァ]]に移ったので、このウズベクによるホラズム政権のことを通例[[ヒヴァ・ハン国]]と呼んでいる。
 
ヒヴァ・ハン国の支配下には、ティムール朝以前のテュルク系定住民と新来のウズベクが混じり合って形成されたオアシス定住民(ウズベク人)と、乾燥地帯に住む[[トゥルクマーン]]([[トルクメン人|トルクメン]])遊牧民からなっており、ハンの権力は弱かった。やがてコンギラト部族の宰相がハンにかわって力を持ち、[[19世紀]]初頭にコンギラトのイルテュゼルが自らハン位についてコンギラト朝を興した。
 
しかし同じ頃、北のカザフ草原から[[ロシア帝国]]の南下が進んでいた。[[1873年]]、コンギラト朝ヒヴァ・ハン国はロシアに屈し、ロシアの[[保護国]]となった。これにともなってハン国の領土は大幅にロシアへと割譲されて削減され、四周はロシア領に囲まれてまったくその[[植民地]]に等しい状況となる。
[[File:Khiva1600.png|300px|right|thumb|ヒヴァ・ハン国の領域(1917年)]]
 
やがて、[[20世紀]]初頭頃からロシア帝国のムスリムの間で起こっていたイスラム改革の動き([[ジャディード運動]])がヒヴァ・ハン国治下のホラズムにも波及し、[[青年ヒヴァ人]]と呼ばれるジャディード運動家たちが活動を繰り広げて、保守的なヒヴァ・ハン政府と対立した。[[ロシア革命]]が起こると、ホラズムも[[1919年]]に[[赤軍]]が入り、[[1920年]]には赤軍と青年ヒヴァ人によって最後のハンが廃位されて、[[ホラズム人民ソビエト共和国]]が成立した。