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==略歴==
ある時、安釐王と[[囲碁]]([[双六]]との説もある)を打っていた所、[[趙 (戦国)|趙]]との国境から[[烽火]]が上がり、安釐王は趙の侵攻かと思い慌てたが、信陵君は落ち着いて「趙王が狩をしているだけのことです」と言った。安釐王が確かめさせると果たしてその通りであった。信陵君は客を通じて趙国内にも情報網を張り巡らしていたので、趙の侵攻ではないと分かっていたのだが、これ以後の安釐王は信陵君の力を恐れて、国政に関わらせようとはしなくなった。
 
そうしているある日、信陵君は門番をしている侯嬴が賢人と聞き、自ら出向き贈り物をした。何か街へ出向く毎にそれは続いた。ある日、信陵君は宴席を設け、自ら侯嬴を招くべく馬車に乗って街へと出向いた。侯嬴は自分が行っても信陵君の恥になりますと一度断ったものの、信陵君に勧められ馬車に乗った。そして途中で止めて欲しいと言って馬車を降り、肉屋である朱亥と世間話を始めた。その間、信陵君は嫌な顔もせず待っていた。そして宴席で信陵君は侯嬴を上席へと座らせた。他の大臣などの客は、汚らしい老人を信陵君自ら招きいれ、しかも上席にしたことに驚いた。そして侯嬴に「世間話など、いつでも出来るのではないですか」と聞いた。
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しかし断じてこれに従い割符を手に入れ、朱亥の所へ向かった。朱亥は「今まで貴方へ礼を言わなかったのは、その恩義に対して答えにならないと思っていたからです。しかし貴方は苦しい状況、今こそ命を懸けて報いさせて頂きます」と答えた。
そして国境の城に出向く。そしてき、軍を率いていた晋鄙将軍に交代するよう言ったが、晋鄙はやはり確認のための伝令を出すと言ったため、やむなく朱亥が40斤の金槌で晋鄙を命令違反として撲殺し、丁重に埋葬した。なお、これに前後して侯嬴は信陵君がいる方向に向け自刎した。
そして軍を率い、趙の危機を救う。この時の指揮も見事なもので、秦軍は信陵君によって負けさせられたといっても良い程である。しかし、勝手に軍を動かしたことで安釐王の大きな怒りを買うと解っていたので、信陵君は「私には罪があるが、軍の皆は命令に従っただけだから罪は無い」と軍は魏に帰し、自分と食客は趙に留まった。趙は救国の士として歓待し、5城を献上し信陵君もそれに応じようとした。だが、食客に「あなたは王命を偽り晋鄙将軍を殺し功を立てたのだから、趙からの報償を受け取るべきではないでしょう」と言われ辞退した。
 
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[[紀元前248年]]、信陵君のいない魏では連年のように秦に攻められ、窮した安釐王は信陵君に帰国するように手紙を出した。信陵君は疑って帰ろうとしなかったが、毛公と薛公に「今日の貴方があるのは魏のお陰であり、その恩を忘れこの危機を見て見ぬ振りをするのは不義です」と諌められて魏へ帰国する。翌年、安釐王と信陵君はお互いに涙して再会し、信陵君は将軍として五ヶ国の軍をまとめて秦の[[蒙驁]]([[蒙恬]]の祖父)を破った。趙・魏はもとより他の国も指揮権を委ねた辺り、信陵君の手腕と名声に他国からも信頼が厚かったことが伺える。そして連合軍はついに[[函谷関]]に攻め寄せて秦の兵を抑えた。これにより信陵君の威名は天下に知れ渡った。客が信陵君に献上した兵法は『魏公子兵法』と呼ばれた。
 
函谷関にまで攻め寄せられ秦は窮地に陥り、また信陵君がいる限りは魏を攻められないと思った秦は、信陵君に殺された晋鄙将軍の下にいた食客を集め、信陵君が王位を奪おうとしているとの噂を流させた。これにより安釐王は再び信陵君を疑って遠ざけるようになり、鬱々とした信陵君は酒びたりになり、[[紀元前244年]]に過度の飲酒のために死去した。なお、子孫の滅亡についての記述が無いのは、戦国四君でも信陵君だけである。
 
==死後==