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[[明治]]時代に日本で新聞が発行されるようになった時から、すでに死亡記事は掲載されていた。この時点では死亡記事として特に独立した欄が設けられてはおらず、一般的な事件記事の中に混じっていた。内容としては[[葬儀|野辺送り]]の日時など、現代のものと近かった<ref>師岡、56頁。</ref>。
 
その後、次第に死亡記事独特の形式が生じていった。{{和暦|1900}}の[[毎日新聞|東京日日新聞]]の[[三遊亭圓朝]]の死亡記事では、現代の死人罫([[#死亡記事の形式|後述]])のように個人名に傍線が付されていた<ref>東京日日新聞1900年8月12日朝刊。</ref>。記事の見出し記事を黒枠で囲む場合もあり、この黒枠の一辺のみが残されたのが現在の死人罫の起源という説もある<ref>師岡、61頁。</ref>。なお、[[皇族]]や[[軍人]]の死亡記事の場合には、紙面全体を黒枠で囲う慣例があった。
 
しだいに同時期の新聞編集全体の傾向と同じく、死亡記事の内容も詳細で派手なものとなった。例えば前述の圓朝の死亡記事では肖像画を掲載する新聞社も多くあり、後には肖像写真が掲載されるようになった。[[大正]]から[[昭和]]初期にかけて、こうした傾向はピークとなった。
 
[[1930年代]]から[[戦時体制]]に入るにつれ、資源節約のために新聞記事の紙面が圧縮され、それに合わせて死亡記事も小さなものとなった。戦後しばらくも物資不足から同様の状況であった。そうした状況下で、現代の新聞社会面下段に並ぶ定型記事の簡素な様式が形成されることになったと考えられる<ref>師岡、66頁。</ref>。
 
経済復興後、再び大きな死亡記事も見られるようになった。[[1960年代]]後半から[[1980年代]]にかけて、従来は政治関係の記事で占められた新聞第一面にも、文化人の死亡記事が大きく掲載されるようになっていった<ref>師岡、72-73頁。</ref>。近年の新たな動きとしては、死亡の速報だけでなく、死後しばらく経ってから追悼記事を掲載する新聞社も現れてきている。