「ブルーザー・ブロディ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
誤字修正
22行目:
 
== 来歴 ==
[[ウエスト・テキサス州立大学]]で[[アメリカンフットボール]]選手として活躍していた(同期に[[ダスティ・ローデス]]、[[ボビー・ダンカン]]。後輩チームメートが[[スタン・ハンセン]]。[[ザ・ファンクス]]は大学の先輩)。[[1968年]]夏、[[NFL]]球団「[[ワシントン・レッドスキンズ]]」入団するが、膝の故障から3年で引退。その後、[[朝刊|朝刊紙]]「ダラス・モーニング・ニュース」のフットボール・コラムニストとなる(生計を立てるために、酒場の用心棒などもしていたという)。
 
やがて[[フリッツ・フォン・エリック]]にスカウトされ、[[1972年]]に[[ヒューストン]]でプロレスラーとしてデビュー(一説には[[1973年]]デビューとも)。デビュー時のリングネームは本名「フランク・グーディッシュ」。エリックの主宰するダラス地区を主戦場に、[[ルイジアナ州|ルイジアナ]]や[[オクラホマ州|オクラホマ]]など深南部エリアにも転戦してキャリアを積む。
 
[[1974年]]10月、同じくレスラーとなっていたスタン・ハンセンとルイジアナ地区でコンビ結成。[[テキサス州|テキサス]]出身のハンセンに合わせ、出身地を同じ南西部の[[ニューメキシコ州]][[アルバカーキ]]とし、リングコスチュームもハンセンの[[テンガロンハット]]に対しグーディッシュは[[ソンブレロ]]を被っていた。同年12月にUSタッグ王座を奪取するが、翌[[1975年]]7月に陥落しタッグを解消。この時リングネームを「フランク・ブロディ」改称。その後、シングルプレイヤーとして多くのローカル・タイトルを獲得した。
 
[[1976年]]7月、「ブルーザー・ブロディ」に改名して[[ニューヨーク]]の[[WWE|WWWF]]参戦。同年[[9月4日]]と[[10月4日]]、[[マディソン・スクエア・ガーデン]]で[[ブルーノ・サンマルチノ]]の[[WWE王座|WWWF世界ヘビー級王座]]に連続挑戦。[[アンドレ・ザ・ジャイアント]]とも対戦して知名度を高め、メインイベンターとしての地位を築く。ちなみに当時のWWWFには、同年[[4月26日]]に首折り事件を起こしたスタン・ハンセンも共にサーキットしていた。また、当時は[[新日本プロレス]]とWWWFの提携が本格的に開始された頃であり、[[1977年]]1月に予定されていた[[アントニオ猪木]]の[[マディソン・スクエア・ガーデン|MSG]]における対戦相手候補としてハンセンとブロディの名前が挙がったこともある。当時の日本のプロレス専門誌には「一番強い奴とやりたい。サンマルチノの首を折ったハンセンが一番強いかというと、あれは偶発的なものでハンセンの実力じゃないという声もある。どうもブルーザー・ブロディというのが一番骨があるらしい」などという猪木のコメント記事が載っていた<ref>[[日本スポーツ出版社]]『別冊ゴング』1976年12月号 本文巻頭記事「闘魂A猪木が来春1月MSG殴り込み!」P98</ref>。結局、猪木のMSG登場は延期になり、この対戦は幻に終わっている。77年にはWWWFとの提携ルートでハンセンが新日本プロレスに来日しているが、ブロディの新日本登場は実現しなかった。
 
1977年、ダラス地区に凱旋。同年[[1月3日]]にフリッツ・フォン・エリックを破り[[NWA (プロレス)|NWA]]アメリカン・ヘビー級王座(後のWCWA世界ヘビー級王座)を獲得する。その後、[[インディアナポリス]]のWWAに参戦し、[[1978年]][[9月11日]]には[[ウィリアム・アフィルス|ディック・ザ・ブルーザー]]との「ブルーザー対決」でWWA世界ヘビー級王座を奪取した。
34行目:
[[1979年]]1月、フリッツ・フォン・エリックの斡旋により全日本プロレスに初来日。[[ジャイアント馬場]]に[[反則]]負けした以外、負けなしの好成績で帰国(タッグながら得意のニードロップをフィニッシュに馬場からフォール勝ちという快挙も果たす)。翌年より、常連外国人レスラーとしてシリーズ毎に何度も来日を果たすようになった。[[1981年]]10月には[[ドリー・ファンク・ジュニア]]から[[インターナショナル・ヘビー級王座]]を奪取。以後このベルトを巡ってドリー、[[ジャンボ鶴田]]、[[天龍源一郎]]らと名勝負を繰り広げる。[[1982年]]、スタン・ハンセンと、日本にてコンビを再結成。「[[ミラクルパワーコンビ|超獣コンビ]]」とのネーミングが与えられた。ハンセンとのコンビで年末恒例の[[世界最強タッグ決定リーグ戦]]に優勝1回・準優勝2回(準優勝2回はいずれも最終公式戦での反則負け)、また[[1984年]]に新設された[[PWF世界タッグ王座]]でも初代王者となった。
 
[[1985年]][[3月21日]]、新日本プロレス引き抜かれる形で移籍し、来日。以前に、新日本が[[アブドーラ・ザ・ブッチャー]]を全日本から引き抜き、それに怒った全日本が[[タイガー・ジェット・シン]]、スタン・ハンセンを新日本から引き抜いた事も含め、日本の2大団体の関係がさらに険悪となる。アントニオ猪木とは、7度シングルマッチで対決(2勝2敗3分けでピンフォール決着は一度もなし)。同年12月、[[IWGPタッグリーグ戦]]に[[ジミー・スヌーカ]]とのタッグで出場するが、[[仙台]]での決勝戦出場をボイコットし、突然の帰国。新日本プロレスからは、永久追放処分となる(新日本はスヌーカとはその後に和解)。金銭トラブルではなく、新日本プロレス側の「外国人レスラーに優勝させたくない」、「[[藤波辰爾|藤波辰巳]]&[[木村健悟|木村健吾]]に勝たせたかった」、「自らが膨らませた坂口負傷アングルを反故にされた」等というブックに反発したトラブルが原因という説が有力。このように、ブロディはブッカーにとって扱いにくいレスラーであり、そのことが後の死につながる。その後、新日本プロレスと和解しかけるが、自ら来日直前にキャンセルし、再度、新日本プロレスから、永久追放を宣言される。<!-- 仙台でのタッグリーグ戦決勝戦ボイコットを、当時、実況の古舘伊知郎は「敵前逃亡」と表現していた。-->
 
この間、本国アメリカではダラスを拠点に主要テリトリーを転戦し、[[ジョージア州|ジョージア]]では[[ブラックジャック・マリガン]]、[[フロリダ州|フロリダ]]では[[ダスティ・ローデス]]、[[テネシー州|テネシー]]では[[ジェリー・ローラー]]、[[アメリカン・レスリング・アソシエーション|AWA]]では[[サージェント・スローター]]など各地のトップスターと対戦。他地区では常に[[ヒール (プロレス)|ヒール]]のポジションだったが、古巣であるダラスでは、[[1980年代]]からはエリック・ファミリーの助っ人的な[[ベビーフェイス (プロレス)|ベビーフェイス]]として活躍した。また、同じテキサスの[[サンアントニオ]]地区(SCW)でも善玉となり、トップ・ベビーフェイスの[[ワフー・マクダニエル]]とタッグを組んだことがある(しかし、プロモーターからの束縛を嫌ってか、特定の地区を長期間サーキットすることはほとんどなかった)。また、[[1984年]]より[[ビンス・マクマホン|ビンス・マクマホン・ジュニア]]の新体制下でスタートした[[WWE|WWF]]の全米侵攻への参加も噂され、新日本移籍時の記者会見でも新WWF王者[[ハルク・ホーガン]]への挑戦をアピールしたが<ref>会見においてブロディは、当時のホーガンのチャレンジャー達を「[[ロディ・パイパー|パイパー]]、[[ポール・オーンドーフ|オーンドーフ]]では小さい。[[ボブ・オートン・ジュニア|オートン]]では細すぎる。[[ビッグ・ジョン・スタッド|スタッド]]? ただの木偶の坊じゃないか」などと揶揄していた。</ref>、結局は実現しなかった(新日本側は当初、ブロディの新日本登場はWWFからのブッキングであったと発表していたが、もともとブロディにはWWFからのオファーはなく、新日本側がブロディ引き抜きの大義名分として、当時提携関係にあったWWFを隠れ蓑にしたともされている)。
 
[[1987年]][[10月2日]]、全日本新日本の2大プロレス団体間の、レスラーに対する「引き抜き防止協定」が足かせになっていたが、新日本プロレス側の違反から、ブロディはリストからはずされ、全日本プロレスに復帰来日。同年暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦では、タッグマッチながらスタン・ハンセンとの最初で最後の初対戦が実現した。
 
[[1988年]]3月にはジャンボ鶴田からインターナショナル・ヘビー級王座を奪回。野獣[[ギミック (プロレス)|ギミック]]の仮面を守り通したブロディがこの時ばかりはファンや関係者と抱き合って歓びを分かち合い、バックステージでは涙を流しながら控え室に戻っていった。
47行目:
リング上では超獣[[ギミック (プロレス)|ギミック]]を一貫して守ったブロディだったが、本来は家族思いの穏やかな人柄で「インテリジェント・モンスター」と呼ばれるように独自のレスリング哲学を持っており、インタビューでは彼本来のクレバーさを感じさせる発言が多く見られた(超獣ギミックについてブロディは「プロレスを初めて見る子供やお年寄りに『あのチェーンをブルブル振り回す奴は誰だっけ』という印象を与えるため」という趣旨を語っている)。また、ラフファイトの裏側に隠された緻密な試合運びには定評があり馬場や鶴田も認めていた。「プロレスは[[チェス]]のようなもの」と語っていた。
 
試合だけでなく、自分の言葉と思想で自分の存在をファンに訴えかけた選手であった(生前最後に受けた1988年4月における『[[週刊プロレス]]』でのインタビューでは、事前にインタビュアーの斉藤文彦に今回のインタビューは3週連続で掲載してくれと提案するなど、マスコミ向けに常に色々とアイディアを持ちかけていた。そしてその時のインタビューは、ブロディの提案通り3週連続で掲載された)。
 
しかしブロディは1981年仙台での対[[ファンクス]]戦で荒れ模様となった試合後半、父親の援護にと無意識にリングに上がった[[ドリー・ファンク・ジュニア]]の息子にフライング・エルボー・ドロップなどの攻撃を本気で与え、ドリーの息子は顔面から大出血、失神状態となり危険な状態にさせた。このプロが素人相手に攻撃を与えた行為は世間から非難された。
 
ブロディは日本人選手の中で[[ジャンボ鶴田]]を特にライバル視しており、鶴田への競争意識から2度目の来日時(1980年1月)には初来日時よりウエーェイトを落として臨んだという(2000年春ごろの[[FIGHTING TV サムライ|サムライTV]]での鶴田追悼番組において[[百田光雄]]が証言している)。また、全日本離脱直後に行われた1985年4月掲載の『週刊プロレス』インタビューでは[[長州力]]は[[しょっぱい]]。鶴田の方が断然優れているとまで語っている。
 
一方で各地のプロモーター、ブッカーとは衝突が絶えず、[[WWE|WWWF]]時代の[[ゴリラ・モンスーン]]を始めとして、ディック・ザ・ブルーザーとの大喧嘩など、その最期に至るまでエピソードには事欠かない。WWFには[[WWE#『1984』以降、WrestleMania時代|『1984』]]への参加を表明していたものの実現せず、その後も何度となく契約が噂されたが、[[ビンス・マクマホン]]はブロディとビジネスをしようとはしなかった。トラブルが無かったのは、若手時代に世話になった[[ダラス]]地区の[[フリッツ・フォン・エリック]]くらいであった。ハンセンによれば、若手時代に格安のギャラで働かされた(レスラー兼プロモーターだった[[ビル・ワット]]のことらしい)頃から彼のプロモーター嫌いが始まったといい、馬場のような普通なら信頼に値するはずのプロモーターでもブロディは信じていなかったという(だが、馬場を信頼しなかったのは1985年までのことで、1988年4月の『週刊プロレス』インタビューにおいて、ブロディは馬場を裏切ったことは本当に失敗だった。馬場に申し訳ないことをしたと悔いていた)。
 
また、海外遠征時代にブロディとサーキットを共にした[[武藤敬司]]は「滅多に他人を褒めなかったが、アドバイスは的確で色々と教えてもらった」と当時のことを語っている。初めて会話した際にいきなり「お前の試合は[[しょっぱい]]」と言われたとのこと。