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== 来歴 ==
[[ウエスト・テキサス州立大学]]で[[アメリカンフットボール]]選手として活躍していた(同期に[[ダスティ・ローデス]]、[[ボビー・ダンカン]]。後輩チームメートが[[スタン・ハンセン]]。[[ザ・ファンクス]]は大学の先輩)。[[1968年]]夏、[[NFL]]球団「[[ワシントン・レッドスキンズ]]」入団するが、膝の故障
やがて[[フリッツ・フォン・エリック]]にスカウトされ、[[1972年]]に[[ヒューストン]]でプロレスラーとしてデビュー(一説には[[1973年]]デビューとも)。デビュー時のリングネームは本名「フランク・グーディッシュ」。エリックの主宰するダラス地区を主戦場に、[[ルイジアナ州|ルイジアナ]]や[[オクラホマ州|オクラホマ]]など深南部エリアにも転戦してキャリアを積む。
[[1974年]]10月、同じくレスラーとなっていたスタン・ハンセンとルイジアナ地区でコンビ結成。[[テキサス州|テキサス]]出身のハンセンに合わせ、出身地を同じ南西部の[[ニューメキシコ州]][[アルバカーキ]]とし、リングコスチュームもハンセンの[[テンガロンハット]]に対しグーディッシュは[[ソンブレロ]]を被っていた。同年12月にUSタッグ王座を奪取するが、翌[[1975年]]7月に陥落しタッグを解消。この時リングネームを「フランク・ブロディ」
[[1976年]]7月、「ブルーザー・ブロディ」に改名して[[ニューヨーク]]の[[WWE|WWWF]]
1977年、ダラス地区に凱旋。同年[[1月3日]]にフリッツ・フォン・エリックを破り[[NWA (プロレス)|NWA]]アメリカン・ヘビー級王座(後のWCWA世界ヘビー級王座)を獲得する。その後、[[インディアナポリス]]のWWAに参戦し、[[1978年]][[9月11日]]には[[ウィリアム・アフィルス|ディック・ザ・ブルーザー]]との「ブルーザー対決」でWWA世界ヘビー級王座を奪取した。
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[[1979年]]1月、フリッツ・フォン・エリックの斡旋により全日本プロレスに初来日。[[ジャイアント馬場]]に[[反則]]負けした以外、負けなしの好成績で帰国(タッグながら得意のニードロップをフィニッシュに馬場からフォール勝ちという快挙も果たす)。翌年より、常連外国人レスラーとしてシリーズ毎に何度も来日を果たすようになった。[[1981年]]10月には[[ドリー・ファンク・ジュニア]]から[[インターナショナル・ヘビー級王座]]を奪取。以後このベルトを巡ってドリー、[[ジャンボ鶴田]]、[[天龍源一郎]]らと名勝負を繰り広げる。[[1982年]]、スタン・ハンセンと、日本にてコンビを再結成。「[[ミラクルパワーコンビ|超獣コンビ]]」とのネーミングが与えられた。ハンセンとのコンビで年末恒例の[[世界最強タッグ決定リーグ戦]]に優勝1回・準優勝2回(準優勝2回はいずれも最終公式戦での反則負け)、また[[1984年]]に新設された[[PWF世界タッグ王座]]でも初代王者となった。
[[1985年]][[3月21日]]、新日本プロレス
この間、本国アメリカではダラスを拠点に主要テリトリーを転戦し、[[ジョージア州|ジョージア]]では[[ブラックジャック・マリガン]]、[[フロリダ州|フロリダ]]では[[ダスティ・ローデス]]、[[テネシー州|テネシー]]では[[ジェリー・ローラー]]、[[アメリカン・レスリング・アソシエーション|AWA]]では[[サージェント・スローター]]など各地のトップスターと対戦。他地区では常に[[ヒール (プロレス)|ヒール]]のポジションだったが、古巣であるダラスでは、[[1980年代]]からはエリック・ファミリーの助っ人的な[[ベビーフェイス (プロレス)|ベビーフェイス]]として活躍した。また、同じテキサスの[[サンアントニオ]]地区(SCW)でも善玉となり、トップ・ベビーフェイスの[[ワフー・マクダニエル]]とタッグを組んだことがある(しかし、プロモーターからの束縛を嫌ってか、特定の地区を長期間サーキットすることはほとんどなかった)。また、[[1984年]]より[[ビンス・マクマホン|ビンス・マクマホン・ジュニア]]の新体制下でスタートした[[WWE|WWF]]の全米侵攻への参加も噂され、新日本移籍時の記者会見でも新WWF王者[[ハルク・ホーガン]]への挑戦をアピールしたが<ref>会見においてブロディは、当時のホーガンのチャレンジャー達を「[[ロディ・パイパー|パイパー]]、[[ポール・オーンドーフ|オーンドーフ]]では小さい。[[ボブ・オートン・ジュニア|オートン]]では細すぎる。[[ビッグ・ジョン・スタッド|スタッド]]? ただの木偶の坊じゃないか」などと揶揄していた。</ref>、結局は実現しなかった(新日本側は当初、ブロディの新日本登場はWWFからのブッキングであったと発表していたが、もともとブロディにはWWFからのオファーはなく、新日本側がブロディ引き抜きの大義名分として、当時提携関係にあったWWFを隠れ蓑にしたともされている)。
[[1987年]][[10月2日]]、全日本
[[1988年]]3月にはジャンボ鶴田からインターナショナル・ヘビー級王座を奪回。野獣[[ギミック (プロレス)|ギミック]]の仮面を守り通したブロディがこの時ばかりはファンや関係者と抱き合って歓びを分かち合い、バックステージでは涙を流しながら控え室に戻っていった。
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リング上では超獣[[ギミック (プロレス)|ギミック]]を一貫して守ったブロディだったが、本来は家族思いの穏やかな人柄で「インテリジェント・モンスター」と呼ばれるように独自のレスリング哲学を持っており、インタビューでは彼本来のクレバーさを感じさせる発言が多く見られた(超獣ギミックについてブロディは「プロレスを初めて見る子供やお年寄りに『あのチェーンをブルブル振り回す奴は誰だっけ』という印象を与えるため」という趣旨を語っている)。また、ラフファイトの裏側に隠された緻密な試合運びには定評があり馬場や鶴田も認めていた。「プロレスは[[チェス]]のようなもの」と語っていた。
試合だけでなく、自分の言葉と思想で自分の存在をファンに訴えかけた選手であった(生前最後に受けた1988年4月における『[[週刊プロレス]]』でのインタビューでは、事前にインタビュアーの斉藤文彦に
しかしブロディは1981年仙台での対[[ファンクス]]戦で荒れ模様となった試合後半、父親の援護にと無意識にリングに上がった[[ドリー・ファンク・ジュニア]]の息子にフライング・エルボー・ドロップなどの攻撃を本気で与え、ドリーの息子は顔面から大出血、失神状態となり危険な状態にさせた。このプロが素人相手に攻撃を与えた行為は世間から非難された。
ブロディは日本人選手の中で[[ジャンボ鶴田]]を特にライバル視しており、鶴田への競争意識から2度目の来日時(1980年1月)には初来日時よりウ
一方で各地のプロモーター、ブッカーとは衝突が絶えず、[[WWE|WWWF]]時代の[[ゴリラ・モンスーン]]を始めとして、ディック・ザ・ブルーザーとの大喧嘩など、その最期に至るまでエピソードには事欠かない。WWFには[[WWE#『1984』以降、WrestleMania時代|『1984』]]への参加を表明していたものの実現せず、その後も何度となく契約が噂されたが、[[ビンス・マクマホン]]はブロディとビジネスをしようとはしなかった。トラブルが無かったのは、若手時代に世話になった[[ダラス]]地区の[[フリッツ・フォン・エリック]]くらいであった。ハンセンによれば、若手時代に格安のギャラで働かされた(レスラー兼プロモーターだった[[ビル・ワット]]のことらしい)頃から彼のプロモーター嫌いが始まったといい、馬場のような普通なら信頼に値するはずのプロモーターでもブロディは信じていなかったという(だが、馬場を信頼しなかったのは1985年までのことで、1988年4月の『週刊プロレス』インタビューにおいて、ブロディは
また、海外遠征時代にブロディとサーキットを共にした[[武藤敬司]]は「滅多に他人を褒めなかったが、アドバイスは的確で色々と教えてもらった」と当時のことを語っている。初めて会話した際にいきなり「お前の試合は[[しょっぱい]]」と言われたとのこと。
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