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'''三浦 正次'''(みうら まさつぐ、[[慶長]]4年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]([[1599年]][[4月6日]]) - [[寛永]]18年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]([[1641年]][[11月29日]]))は、[[日本]]の[[江戸時代]]の[[大名]]。[[下総国|下総]][[矢作藩]]主、のち[[下野国|下野]][[壬生藩]]初代藩主。六人衆(後年の[[若年寄]])の一人。[[美作国|美作]][[勝山藩]]三浦家初代。
 
[[三浦正重]]の長男。母は土井利昌の娘([[土井利勝]]の義妹)。正室は[[堀直之]]の娘。子に[[三浦安次]](長男)、三浦共次(次男)、娘([[鳥居忠春]]正室)、娘([[本多政朝 (旗本)|本多政朝]]正室)、娘([[遠山伊次]]正室)、娘(堀直之養女)ら。官位は従五位下、[[志摩国|志摩]]守。幼名、甚太郎。
 
幕閣の中心人物である土井利勝の甥にあたるため、慶長17年([[1612年]])から[[元和 (日本)|元和]]9年([[1623年]])にかけて土井姓を称するが、のち三浦に復姓する。[[寛永]]7年([[1630年]])、下総矢作に1万石を与えられて[[大名]]となる。寛永10年([[1633年]])3月23日、六人衆となる。寛永16年([[1639年]])、2万50005,000石をもって壬生城主となる。寛永18年(1641年)、43歳で死去。後を長男・安次が継いだ。
 
{{先代次代|[[矢作藩|三浦氏(矢作藩)藩主]]|1630年 - 1639年|[[鳥居忠政]]|-}}