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{{基礎情報 武士
'''平 教経'''(たいら の のりつね、[[永暦]]元年([[1160年]]) - [[元暦]]2年[[3月24日 (旧暦)|3月24日]]([[1185年]][[4月25日]])は、[[平安時代]]末期の武将。[[平教盛]]の次男。母は[[藤原資憲]]娘。兄に[[平通盛]]。弟に[[平業盛]]、[[忠快]]。初名は国盛。[[従五位下]]・[[能登国|能登]][[受領|守]]・[[民部大輔]]。
| 氏名 = 平教経
| 画像 = Taira no Noritsune.jpg
| 画像サイズ = 230px
| 画像説明 = 平教経像/[[赤間神宮]]
| 時代 = [[平安時代]]末期
| 生誕 = [[永暦]]元年([[1160年]])
| 死没 = [[寿永]]3年([[1184年]])2月7日、または<br/>[[元暦]]2年[[3月24日 (旧暦)|3月24日]]([[1185年]][[4月25日]])
| 改名 = 国盛、教経
| 別名 =
| 墓所 = [[赤間神宮]]の七盛塚
| 官位 = [[従五位下]]、[[能登国|能登]][[受領|守]]、[[民部大輔]]
| 主君 =
| 氏族 = [[伊勢平氏]]
| 父母 = [[平教盛]]、[[藤原資憲]]の娘
| 兄弟 = [[平通盛|通盛]]、'''教経'''、[[平業盛|業盛]]、[[仲快]]、[[源通親]]室、<br/>[[藤原成経]]室、[[平教子|教子]]、他
| 妻 = [[海御前]]
| 子 =
}}
 
'''平 教経'''(たいら の のりつね)は、[[平安時代]]末期の[[平氏|平家]]一門の武将。[[平教盛]]の次男。
 
『[[平家物語]]』では、数々の合戦において武勲を上げ、「たびたびの合戦で一度の不覚も取ったことはない」「王城一の強弓精兵」と言われる平家随一の猛将であり、[[源義経]]のライバル的存在として描かれている。
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都落ち後、退勢にある平家の中でひとり気を吐き、[[水島の戦い]]、'''六箇度合戦'''、[[屋島の戦い]]で奮戦して[[河内源氏|源氏]]を苦しめた。最後は[[壇ノ浦の戦い]]の敗戦の中さんざんに戦い、源義経に組みかかろうとするが、'''八艘飛び'''で逃げられ、大男2人を締め抱えて海に飛び込んで死んだ。
 
ただし、[[鎌倉幕府]]の公式日記(またはそれに準ずるもの)編纂書の『[[吾妻鏡]]』では教経はさほど目立たない武将で、[[一ノ谷の戦い]]で[[安田義定]]の軍に討ち取られ、[[京都]]で[[獄門]]になっている。一方で、『[[玉葉]]』、『[[醍醐雑事記]]』などの別の史料では一ノ谷生存説もあり、猛将であったことを含め教経の実像については不明な点が多い。また九州に伝わる河童の妖怪[[海御前]]は教経の妻(もしくは母親)の化身だと言われている。
 
== 生涯 ==
主に[[軍記物語]]の『平家物語』に依って教経の活躍を記述する。軍記物語なので必ずしもすべてが史実とは限らない。
=== 都落ち・水島の戦い ===
[[治承]]3年([[1179年]])、能登守に任官。『玉葉』の[[養和]]元年([[1181年]])9月11日の記事に教経が[[平行盛|行盛]]とともに[[北陸道]]追討の副将軍として下向するとの伝聞がある(実際には教経は北陸の戦いには参戦していない)。
 
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水島の敗戦により義仲の平家追討は頓挫。やがて、義仲は信望を失い、[[後白河法皇]]とも対立して、寿永3年([[1184年]])正月に[[鎌倉]]の[[源頼朝]]が派遣した[[源範頼|範頼]]・義経によって滅ぼされた。
 
=== 六箇度合戦 ===
源氏同士の抗争の間に平家は[[摂津国]][[福原京|福原]]まで進出した。[[西国]]各地でも平家に叛く動きが起きていた。平家の足もとの[[四国]]でも[[阿波国]]、[[讃岐国]]の在庁官人が源氏に通じ、[[備前国]]下津井にいた教盛、通盛、教経父子の陣へ兵船10余艘で攻めかかった。教経は「契りをたがえるとは許せん、一人残らず討ち取れ」と小舟10艘を率いて出撃してさんざんに打ち破った。
 
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これら一連の戦いを'''六箇度合戦'''といい、教経は退勢の平家を支えるべく転戦した。
 
=== 一ノ谷の戦い・討死? ===
寿永3年(1184年)2月4日、義仲を滅ぼした範頼・義経が福原攻略に進発した。平家は福原周辺に防御陣を敷き、教経は兄の通盛とともに山の手を守った。通盛が妻を呼び寄せて別れを惜しもうとすると、教経は「ここはこの教経が差し向けられる程の最も危険な戦場ですぞ。そのような心がけでは、ものの役に立ちますまいに」と嗜めている。
 
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ところが、『玉葉』には晒し首になった者たちのうちで教経については生存の風聞がある事を示す記述があり、『[[醍醐雑事記]]』などは壇ノ浦の戦いで自害したとしている。一方で、『吾妻鏡』の壇ノ浦の戦いの戦果報告の戦死者、捕虜の中には教経の名はない。このために一ノ谷の戦い後の教経については死亡説、生存説があり、はっきりしない。
 
=== 屋島・壇ノ浦の戦い ===
[[元暦]]2年([[1185年]])2月、義経は平家の本営讃岐国屋島へ奇襲をしかけた。平家は屋島を捨てて船で逃げ出すが、義経が意外な寡兵と知って激しい矢戦となった。教経は「舟戦にはやり様があるものだ」と言うと、[[鎧]][[直垂]]を着ずに、軽装で戦い、見事な技で敵を射落とし逃すことがなかった。義経の郎党たちが主人を守ろうと矢面に立つが、「そこを退け、雑魚ども」と言うや、さんざんに射て10騎を射落とした。この時、[[陸奥国|奥州]][[平泉]]から義経に従っていた[[佐藤継信]]が真っ先に矢面に立ち射抜かれた。
 
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三十人力で知られた[[土佐国]]住人[[安芸実光|安芸太郎]]と[[安芸次郎|次郎]]の兄弟そして同じく大力の郎党が、生捕って手柄にしようと、三人で組みかかった。教経は郎党を海へ蹴り落とすと、安芸兄弟を左右の脇に抱えて締め付け「貴様ら、死出の山の供をせよ」と言うや、兄弟を抱えたまま海に飛び込んだ。享年26。
 
== 関連項目 ==
*[[平家物語]]
*[[屋島の戦い]]