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[[ファイル:George_Martinuzzi.jpg|right|200px|thumb|フラーテル・ジェルジ]]
'''フラーテル・ジェルジ'''(Fráter György、1482年 - 1551年12月16日)は、[[クロアチア]]出身の[[ハンガリー]]の政治家、[[ローマ・カトリック教会]]の修道士、[[エステルゴム]]大司教、[[枢機卿]]。クロアチア人としては'''ユライ・ウティエシェノヴィチ=マルティヌッツィ'''(Juraj Utješenović-Martinuzzi)と呼ばれる。フラーテルは修道士を意味する。
 
== 生涯 ==
フラーテル・ジェルジは[[ダルマチア]]に生れた。彼はしばしば'''フラテル・ゲオルギウス'''(Frater Georgius)と自署したため、ハンガリーの歴史ではフラーテル・ジェルジまたはその短縮形の'''トゥクス・フラテ'''(Tux Frate)と呼ばれる。彼は[[クロアチア]]の下級貴族ユライ・ウティエシェノヴィチの息子で、自身も父と同じ名前を付けられたが、[[ヴェネツィア]]の貴族家門マルティヌッツィ家の出である母親の姓を名乗った。マルティヌッツィは8歳から20歳まで[[コルヴィン・ヤーノシュ]]の宮廷に仕え、その後サポヤイ家に士官して[[サポヤイ・ヤーノシュ]]の配下でいくつかの戦争を経験したが、やがて軍人生活に疲れ、[[初代隠修士聖パウロ修道会]]に入って28歳で修道士フラーテル・ジェルジとなった。
 
フラーテルのかつての主人だったサポヤイはハンガリー王に選ばれたが、対立王の[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]](後の神聖ローマ皇帝)に攻められて逃亡を余儀なくされた。サポヤイはフラーテルに外交交渉役を務めるよう命じてハンガリーに送り込んだが、これがフラーテルにとって輝かしいキャリアの出発点になった。フラーテル・ジェルジの機転と有能さのおかげでサポヤイは1529年に[[ブダ]]を取り戻し、その功績を買われたフラーテルはサポヤイ宮廷で財務長官、第一顧問官の地位を与えられた。フラーテルは1534年に[[オラデア|ナジヴァーラド]]司教となり、1538年に[[オーストリア]]との間で[[ナジヴァーラドの和約]]を結んだ。この和約により、オーストリア側はサポヤイが王号を保持し、またハンガリーの大部分を領有することを認めた。サポヤイは死に際して生後間もない息子[[ヤーノシュ・ジグモンド]]の保護者としてフラーテルを選び、ヤーノシュ・ジグモンドはハンガリー王として即位・戴冠、フラーテルは幼王の事実上の摂政となった。フラーテルはオーストリア人に協力しようとする王母[[イザベラ・ヤギェロンカ]]の行動に苛立たされた。1541年、オーストリアの軍勢がブダの城壁の下に姿を現すと、フラーテルはイザベラを逮捕し、オスマン宮廷に救援を要請した。