「アジール」の版間の差分

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アジールとされた地域には、[[教会]]、[[神社]]、[[寺院|仏閣]]などの宗教的[[聖地]]の要素を持つ場所<ref>ただしアジールであった理由が「宗教的聖地」であったためかどうかについては争いがある。日本においては、[[伊藤正敏]]などは大寺社はそれ自身が「かなりの人口」「工業生産能力」「交易機能」などの都市機能を持っていたことに注目して「境内都市」という概念を主張している。その観点からは宗教地アジールは必ずしも「聖地である」という理由に基づくものではなく、宗教をきっかけとして誕生した有力な都市なのであり「自治都市」のヴァリエーションのひとつ、という位置づけとされる(ちくま新書『寺社勢力の中世(伊藤正敏)』第二章「境内都市の時代」)。</ref>や、[[市場]]など複数の権力が入り混じる自由領域・交易場所などがあった。[[商業]]都市も、武力を背景とした統治権力に対抗する「自治都市」として強いアジール性が認められた場合がある。単に「統治権力が及ばない地域」というだけではなく、「大きな統治権力と小さな統治権力がせめぎあった結果、大きな統治権力の実効支配が否定されている地域」と理解することもでき、統治権力が大きく統合されていく過程で生じた過渡的な現象ということもできる。
 
アジールは、大きな統治権力の側から見た場合に自らの力が及ばない好ましくない場所であった。そのため、統治権力の側はアジールを否定して支配することに熱意をそそいだ。力による制圧<ref>日本においては、たとえば[[織田信長]]による[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]・[[高野聖]]の虐殺や[[豊臣秀吉]]による[[刀狩]]令。前者は特定のアジールに対する攻撃にとどまるが、後者は(一般的に農民などの武装解除を行ったと受け止められているがそれににとどまらず)寺社・自由都市などの武装をも解除するものであり、武力に基づいてアジールが域外権力から独立した存在であり続けることが可能な構造を否定しアジールを制圧するものであったと位置づけることができる(ちくま新書『寺社勢力の中世(伊藤正敏)』終章「中世の終わり」)。</ref>のほか、一定の自治権を統治権力の側が認め許したという様式を整える・寺社などの場合には権力者が自らの[[菩提寺]]としたり庇護を与えるなどして特権を認めるなどのさまざまな方法で懐柔して取り込み<ref>日本におけるアジール解体の過程について、伊藤正敏は「絶対的無縁所」「相対的無縁所」という概念を提示している。絶対的無縁所とは外部権力と対等に渡り合える実力を持つアジールであり、相対的無縁所は外部権力から一定の自治を認められたが完全に権力の影響を避け得ていないものである。時代が下がるにつれ、絶対的無縁所から相対的無縁所に移行し、さらに相対的無縁所が消滅するという経緯をたどった。具体的には、中世から近世への移行によって絶対的無縁所はほぼ失われ、徳川幕府治世から明治政府への切り替えを契機として相対的無縁所もほぼ失われるに至った(ちくま新書『寺社勢力の中世(伊藤正敏)』187ページ「無縁所の四類型」)。</ref>、結果としてアジール性を失わせるといった方法も取られた。こういった圧力の結果、時代が下るにつれアジールは徐々に狭められていく傾向にあった。国家の隅々まであまねく統治権力が及ぶとされる近代国家では、アジールは滅び、原則として存在しない。
 
日本におけるアジール研究は、歴史学者の[[平泉澄]]が先鞭をつけた。平泉は初期の論文『中世に於ける社寺と社会との関係』の中で「アジールは人類発達の或る段階に於て、一般に経験する所の風習又は制度」と述べている。この発想は[[中田薫 (学者)|中田薫]]・[[網野善彦]]・[[伊藤正敏]]らに引き継がれ、何をアジールと認識すべきか、そのアジールを支えてきた制度がどのように変遷してきたか、などが徐々に明らかになってきている。