「ポントス」の版間の差分

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3世紀半ばには[[パルミラ王国]]の攻撃によりカッパドキアと共にその傘下に組み込まれたが、272年までに[[ローマ帝国]]へと復帰した。295年頃、[[ディオクレティアヌス]]帝は[[アルメニア]]の一部も含めてポントス(ポントゥス)を4つの属州に再編した。
 
=== ビザンティン東ローマ以降 ===
[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国)の[[ユスティニアヌス1世]]は536年にポントスを、ポントス・ポレモニアクス、ヘレノポントス(Helenopontus)、[[パフラゴニア]](Paphlagonia)へ再編し、7世紀以降の[[テマ制]](軍管区制)へと引継がれることとなった。東ローマ帝国の支配が徐々に弱まる中で、ポントスには東ローマより独立した国家として、[[トレビゾンド帝国]]が[[1204年]]から[[1461年]]まで存続した。
 
トレビゾンドが滅亡して以降は[[オスマン朝]]の支配に服することとなり、オスマン朝が[[1922年]]に滅亡した後は[[トルコ共和国]]へ帰属している。