「和田三造」の版間の差分

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1904年東京美術学校を卒業し、1905年白馬会展で『牧場の晩帰』が白馬会賞を受賞する。1907年第1回[[文部省美術展覧会]](文展)に出品した『南風』が2等賞(最高賞)を受賞する。この絵の中で小船の上に立つたくましい男のモデルは、和田が中学時代に通っていた[[玄洋社]]が運営する柔道場「明道館」の2代目館長河野半次郎といわれる。更に、翌1908年の第2回文展においても『煒燻』で2等賞(最高賞)を受賞する。1909年文部省美術留学生として渡欧し、フランスを中心にヨーロッパ各国を巡歴し、洋画とあわせて工芸図案の研究も行う。その帰途、インドやビルマ(現・ミャンマー)で東洋美術を研究し、1915年に帰国する。1917年文展審査員となる。以後、文展や、文展が改称した帝国美術院展覧会(帝展)に出品する一方で、装飾工芸や色彩研究にも力を入れ、1920年染色芸術研究所を設立。一方で日本画への関心も深めていった。
 
1927年帝国美術院(現・[[日本芸術院]])会員となり、同年、我が国における色彩の標準化の必要性に着目し[[日本標準色協会]]を創立する。ここでの和田の色彩研究の成果は『色名総鑑』(1931年)などに表れている。1932年東京美術学校図案科教授となる。1945年日本標準色協会を[[日本色彩研究所]]に改組し理事長に就任、1951年にはここで日本初の綜合標準色票『色の標準』を完成する。1953年[[大映]]映画『[[地獄門]]』で色彩デザイン、衣装デザインを担当し、この作品で翌1954年の第26回[[アカデミー賞]]で[[アカデミー衣裳デザイン賞|衣装デザイン賞]]を受賞する。晩年は油彩画の他、工芸や水墨画にも活躍し、1958年[[文化功労者]]に選ばれている。1967年8月22日死去。84歳
 
== 代表作品 ==
[[画像:Wada-sanzou000058.jpeg|thumb|right|160px240px|南風]]
*『大島を望む』(1907年)[[東京国立近代美術館]]
*『南風』(1907年)東京国立近代美術館
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{{DEFAULTSORT:わた さんそう}}
[[Category:日本の画家]]
[[Category:朝来市衣装デザイナー]]
[[Category:兵庫県出身の人物]]
[[Category:アカデミー賞受賞者]]
[[Category:文化功労者]]
[[Category:1883年生]]
[[Category:1967年没]]