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[[画像:試衛館跡碑.JPG|thumb|170px|市谷柳町 試衛館跡]]
'''試衛館'''('''しえいかん''')は、江戸市谷甲良屋敷(現在の[[東京都]][[新宿区]]市谷柳町25番地)には、近藤勇邸宅内にあった(佐藤彦五郎日記)。市谷甲良屋敷は、大棟梁甲良家の拝領地で町人に賃貸してた賑やかな商店街であった。その商店街にあって、勇の養父、近藤周助の保証人である山田屋権兵衛の所有する蔵の裏手に試衛館はあったと子孫の伝承に遺されている。 
 市谷甲良屋敷は現在の市谷柳町25番地である(東京府名所図会、牛込区史)。一説に試衛館跡を現在の市谷甲良町1番地とする説があるが、この地には文政年間より明治10年代まで吉野元順という医師が代々「回春塾」という医塾を開業していた(東京府学事開業調書)。試衛館自体、維新後に書き記されたものであったこと。また、試衛館を甲良町説を主張す論じ作家がいるが、いずれの作家も甲良町説や柳町説を裏付ける史料を提示したことは一切い。近藤邸が柳町にあったということは創作史料から作られた場所もわかることなので注意したいあるが
 ちなみに現在の「市谷甲良町」は地名こそ市谷甲良屋敷から由来するが、当時は御先手同心組屋敷であり、本来の町名とは関係がない。甲良は人名からきたものであり、江戸時代は武家地であった。後半でもこの地に商人等が家屋を借りにきたという記録は存在しない。可能性論を創作した作品には引用文献絵地図ある数十種類も残されており、そこどうら武家地でなくなっていったこともわ注意したい
 平成16年3月、東京都新宿区教育委員会が史料を基に、碑を建立している。だが、新宿区教育委員会は何処に試衛館があったのかは断言できないと述べている。
[[近藤勇]]の養父である三代目:[[近藤周助]] と 四代目:[[近藤勇]]の時の道場。のちの[[新選組]]の中核をなす侍たちが顔を連ねていた。門弟としては[[土方歳三]]・[[沖田総司]]・[[井上源三郎]]・[[山南敬助]]、食客としても、[[永倉新八]]・[[原田左之助]]・[[藤堂平助]]・[[斎藤一]]などがいた。