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{{クラシック音楽}}[[File:FritzSteinbach.jpg|thumb|Fritz Steinbachフリッツ・シュタインバッハ]]
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'''フリッツ・シュタインバッハ'''('''''Fritz Steinbach''''', *[[1855年]][[6月17日]] [[グリューンスフェルト]] - †[[1916年]][[8月13日]] [[ミュンヘン]])は[[ドイツ]]の[[指揮者]]・[[作曲家]]。[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]作品を得意としたことで名を遺している。
 
== 略歴 ==
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[[1886年]]に、[[リヒャルト・シュトラウス]]から[[マイニンゲン宮廷管弦楽団]]の[[宮廷楽長|楽長職]]を引き継ぐ。同楽団は、[[1881年]]から[[1885年]]まで、かつて楽長[[ハンス・フォン・ビューロー]]のもとで精鋭オーケストラに育て上げられていた。[[マイニンゲン]]でシュタインバッハは、ブラームスに密に協力し、188年から[[1896年]]までしばしばブラームスを、ザクセン=マイニンゲン侯ゲオルク2世や宮廷楽団の貴賓としてもてなした。シュタインバッハは最も名高いブラームス指揮者として名を揚げて、ブラームス作品をずば抜けて数多く上演した。そのためブラームスの確固たる地位がいっそう演奏界に築き上げられた。ブラームスの遺産が今日までマイニンゲンの街で特別に受け継がれているのは、シュタインバッハが土台を築いたからだった。
[[File:MeiningerHofkapelle1899.jpg|thumb|250px|マイニンゲン宮廷楽団と指揮者フリッツ・シュタインバッハ(1899年)|left]]
シュタインバッハは、首都マイニンゲンを、バイロイトを手本にブラームスの街にしようと努力し、音楽学校とブラームス演奏会館とを隣り合わせに建設することを画策した。この目的のために、[[1897年]]と[[1899年]]ならびに[[1903年]]の3度にわたって、ブラームス作品で構成されたザクセン=マイニンゲン地方音楽祭を首尾よく組織する。この音楽祭は、数多くのブラームスの専門家が一堂に会し、ヨーロッパの音楽祭の中でも大きな注目を集めた。1897年はブラームス本人が主賓として出席している。[[マイニンゲン宮廷楽団]]はシュタインバッハの指揮のもとに、1897年からたびたび演奏旅行を行い、[[スイス]]や[[オランダ]]、[[デンマーク]]、[[イングランド]]、[[ボヘミア]]の計85都市に297回客演した。ドイツで最初のブラームスの[[記念碑]]は、シュタインバッハの最終的な関与によって、[[1899年]]に彫刻家の[[アドルフ・フォン・ヒルデブラント]]によってマイニンゲンに建てられた。